名所旧跡など

兵道塚・徳玄塚(西尾市長縄町・観音寺境内)

2018年6月2日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ポイント

 松平元康と吉良義昭が東条城下で戦った「藤波畷の戦い」において戦死したとする二人の武将の供養塚が西尾市長縄町にある「観音寺」の境内にひっそりと据えられています。元々は東条城北側の駮馬山の山中に据えられていた塚ですが駮馬山の開発によって観音寺に移設されたんだとか。なぜ観音寺に移設されたのかと云うと・・・・。

兵道塚と徳玄塚とは?

 この兵道塚と徳玄塚なんですが、元々は東条城近くの駮馬山に据えられていた塚で、永禄四年(1561年)九月に起った松平元康(徳川家康)と吉良義昭が東条城を巡って戦った「藤波畷の戦い」において討ち死にした大河内小見兵道と富永伴五郎の弟で僧だった徳玄を祀った塚だと言われています。

大河内小見守とは

 兵道塚は「大河内小見(守)兵道」を弔う為の塚であるとしています。この人物は吉良家家臣の大河内氏の分家となる長縄城主の「長縄大河内氏」は「小見守」を称している事から、長縄大河内氏の一族の者であると思われます。

長縄城址

長縄大河内氏の居城

 もともと据えられていた駮馬山から長縄の観音寺に移された大きな理由の一つは兵道塚に弔われているという大河内小見兵道が長縄出身であると考えられる事なんだと思います。

 現在は、観音寺の墓所の一角にひっそりと二基の塚が据えられています。その間に移設された経緯なのが記された石柱が設置されています。

「永禄四年九月、松平元康公と東條吉良氏との戰に、東條方に味方し東條城落城のとき、駮馬山にて討死し、その地に葬られて兵道塚と呼ばれた。昭和五十九年九月、吉良土地改良転作促進対策事業ほ場整備のため、吉良町の要請により、駮目山より此の地に移す 昭和六十年春彼岸」

と書かれており、裏側には

大河内左京之助兵道
法名王岑正宝大居士
永禄四年九月三日

大河内善左衛門小見
法名開心道運大居士

と彫られています。

藤波畷の戦い

永禄四年九月の戦いとは、松平元康が吉良義昭が守る東条城を攻める最後の戦い"藤波畷の戦い"の事をいいます。東条城が落ちる日まで吉良家の宿老だった大河内氏も吉良氏側に付き戦っていたことが、兵道塚の由来から読み取ることができます。

また、徳玄塚の由来になった富永徳玄なんですが、吉良方宿老の富永伴五郎忠元の弟で出家し"徳玄"と名乗っていたそうなのですが、僧籍のまま"藤波畷の戦い"に参戦し、最終的には東条城の北東側の駮馬山まで松平軍の追い込まれ大河内小見と共に討ち死にしたと言われています。

ただ、大河内氏の家系図を調べても、大河内小見、大河内兵道の両名とも名前が出てこないので、兵道塚と呼ばれている方に大河内氏両名が祀られているかはわかりませんが、松平氏と吉良氏の東条城を巡る攻防戦での戦死者追悼の碑では間違いないと思います。


藤波畷の戦いの頃の松平軍と吉良軍のかんたんな配置図になります。

東条城からみて南側の開けた場所に、松平軍は砦を築き、小牧砦には本田広孝を津平砦には松井忠次を配置していました。また、富安忠元の居城"室城"の抑えに、糟塚砦を築き小笠原宗忠を配置していました。

東条城西側で起きた藤波畷の戦いで富永忠元が討たれ、吉良側は東条城に入城することも出来ず、東条城北東側の山側まで攻め込まれ全滅したことが読み取れますね。

藤波畷の戦い

松平元康と吉良義昭による東条城を巡る戦い

所在地を地図で確認

史跡名兵道塚・徳玄塚
所在地愛知県西尾市長縄町玉屋十二番地(観音寺境内)
最寄駅名古屋鉄道西尾線「福地駅」徒歩15分

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