神々の伝承

建御雷神(タケミカヅチノカミ)とは?

2018年2月25日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

建御雷神とは?

 中臣氏または藤原氏の氏神であるとする茨木県鹿嶋に鎮座する「鹿島神宮」の御祭神として知られ、平城京の近くに中臣氏、藤原氏の氏社として建立された「春日神社」の御祭神として鹿島神宮より勧請されその名を連ねている神になります。

 いつ頃から建御雷神が藤原氏の氏神となったのかは不明ですが、奈良時代から平安時代にかけて藤原氏の権威の元、その氏神とされた建御雷神を御祭神とする鹿島神宮は朝廷からの庇護を厚く受けていた事は、その社名に「神宮」が使われている事からも明らかだと思います。

記紀での神名

  • 古事記
    • 建御雷之男神たけみかづちのおのかみ
    • 建御雷神たけみかづちのかみ
  • 日本書記
    • 武甕槌たけみかづち
    • 武甕雷男神たけみかづちおのかみ

更に、古事記では「建布都神たけふつのかみ」や「豊布都神とよふつのかみ」との別称も記されている。

以下、当サイトでは"タケミカヅチ"と表記します。

建御雷神の誕生

 古事記では伊邪那岐伊邪那美の「神生み」の最後に火之迦具土神を生んだ際、伊邪那美は大やけどを負ってしまい、病床でもがき苦しんだ後に無くなってしまいます。伊邪那岐は怒り狂って"十拳剣(天之尾羽張)"でカグツチの首を切り落として殺してしまう。十拳剣の根元から滴り落ちたカグツチの血から生まれたのがタケミカヅチになります。

その後、タケミカヅチが2度登場します。

国譲りでの建御雷神

出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ったタケミカヅチは、出雲を統治していた大国主の前に現れ、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、切っ先の上に胡坐をかいて、大国主に対して国譲りの談判をおこなった。
大国主は、良いも悪いも答えず、二人の子供が認めたら出雲は譲ると答えた為、ダケミカヅチは二人の子供に話をすると、事代主(コトシロヌシ)はあっさりと国譲りを承諾、もう一人の子”建御名方神(タケミナカタ)”は力比べで勝ったら承諾すると答えた。建御雷との力比べは一捻りで勝ち、タケミナカタは恐懼して遁走し、国譲りがなったという。

相撲の起源?

「古事記」ではタケミカヅチとタケミナカタの戦いは、相撲の起源だとされています。
タケミナカタがタケミカヅチの腕を掴んで投げようとしたが、その時、タケミカヅチは手を氷柱へ、また氷柱から剣に変えたためにつかむことが出来ず、逆にタケミナカタの手は、葦の若葉のように握りつぶされてしまい、勝負にならなかった、とあります。

この戦いが相撲の起源とされています。

神武東征の建御雷神

神武天皇が熊野にさしかかったとき、悪神が毒気を吐くと、毒気にやられて天皇一行は倒れてしまった。アマテラスはタケミカヅチに手助けを命じますが、タケミカヅチは自ら降りるのではなく、かつて使った「剣」を高倉下(タカクラジ)の元へと降ろしました。タカクラジはその剣を神武天皇に奉ずると、天皇一行は立ち直り、軍を進めた。その剣を布都御魂(フツノミタマ)であり、現在奈良県の石上神宮に祀られています。

建御雷神の御神徳

名前の通り、雷の神として知られています。
また、「古事記」「日本書紀」に書かれているタケミカヅチの力強い姿から、武神、剣神とされています。

建御雷神を祀る神社

鹿島神社

茨城県鹿嶋市宮中 2306-1に鎮座する元常陸国一宮

春日大社

奈良県奈良市春日野町160に鎮座する全国の春日神社の総本宮

神仏習合時代の建御雷神

当時、春日社と呼ばれており、神宮寺である興福寺と一体となっていました。春日社も興福寺も飛鳥時代から平安時代にかけてとても大きな権力を持っていた藤原氏(中臣氏)による創建になります。春日社の祭神であった、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神を春日神と呼んでいましたが、興福寺との結びつきが強くなっていき、仏教色が強くなり、春日権現(春日大明神)と呼ばれるようになりました。

中臣氏(藤原氏)と建御雷神

大化の改新で有名な中臣鎌足は常陸国の出身と言われており、氏神として武甕槌命、経津主命を祀っていました。中臣不比等は、鹿島神社より武甕槌命、香取神社より経津主命を歓請して、祖神の天児屋根命と比売神を合わせて祀り、春日社を創建しました。

当時、常陸国は蝦夷と呼ばれた東北を中心した豪族との闘いの最前線であり、常陸国の神を歓請して大和国で祀る事で常陸国にも神のご加護が厚くなるとされていて、一種の戦意高揚の意味合いもあったと言われています。

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