西尾市

善明堤の戦い(松平vs吉良:吉良:富永氏、乾坤一擲の戦い)

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

以前紹介した、藤波畷の戦いの五か月前の永禄四年四月十五日に勃発していたのが善明堤の戦い(鎧ヶ淵の戦い)と言われる戦いが起きています。

善明堤の戦いとは?

この善明堤の戦いの以前に、中島郷(現在の岡崎市中島町)の支配をめぐって松平氏と吉良氏の争いがありました。元々中島郷は吉良氏が収めていた地域になるのですが、東条吉良氏の当主"吉良義安"は織田家に近づこうとした為、今川氏の討伐軍が東条吉良氏を襲います。

今川方の松平氏によって中島郷は奪い取られ、その後今川方の武将が中島郷に入ったとされます。その後永禄三年(1560年)に桶狭間の合戦が起き、松平元康が今川氏からの独立を果たすと、その翌年には、元康の家臣である深溝松平家の”松平好景"が中島郷に兵を進め、今川の兵を駆逐し、支配下に納めています。

善明堤の戦いへの序曲

この中島郷奪取と時を同じくして、松平元康は吉良氏に対しても敵対行動をとっています。永禄四年一月に、松平軍は突如吉良氏の家臣"富永氏"の居城である室城を攻めます。この時は吉良義昭が出兵したので元康は軍を引き返しています。

松平元康としても、このまま、対吉良氏の戦線が膠着させる訳にはいかず、早々に吉良氏と共に今川氏も西三河から駆逐するという戦略で動いていた様で、松平軍は永禄四年二月には東条城に直接攻め込みます。この時は吉良氏が東条城を守り切っています。

善明堤の戦い勃発

そんな松平氏の圧力が日に日に高まる中、吉良方はある作戦を実行して中島郷の奪還に動き出します。そのある作戦とは・・。

①室城から中島郷を超えて、上野城(現豊田市)に向けて出陣をする。
②中島郷の守備隊が吉良氏の軍勢への追撃の為出陣する。
③手薄になった中島郷へ、東条城から軍勢を出陣させ中島郷を攻め落とす。

こんな作戦だったんだろうと思うのですが、ここで中島郷を納めていた深溝城主の松平好景がいち早く中島郷に向けて出陣をします。

中島郷で吉良軍と松平軍が激突するかと思われたのですが、ここで吉良軍が後退します。

後退した吉良軍を松平好景は追撃します。

室城を超え、現在では黄金堤が築かれてる場所辺りになるのですが、その当時は山と山に挟まれ、さらにその間に川が流れていた場所になっていて、一帯が淵と呼ばれていた場所まで軍勢を進めていくと、突如両側の山間から吉良兵の伏兵が現れ、松平軍に一斉攻撃を行います。

松平軍の大半は吉良軍に淵に追い落とされ壊滅してしまいます。松平好景は、なんとか戦線から斬り抜け、手勢数騎と共に中島郷に向けて撤退しますが、現在の下長良にて吉良兵に追いつかれ、その場で自害します。

松平好景が戦死した場所には、現在碑が建っています。


その後、吉良軍は中島郷に再び軍を進め、中島郷を奪還に成功します。
憶測ですが、この頃には富永軍を追撃していた軍勢も深溝城に帰還し、誘導部隊だった富永軍も上野城に攻め込んだ記録は無い様で、室城に帰還しているんだと思われます。

松平軍としては、対吉良氏前線を任されていた深溝松平の松平好景が戦死してしまったのは非常に痛手であり、これ以降、対吉良氏の戦略を変更し、東条城包囲網を構築していく事になります。

訪問記

深溝松平軍が壊滅させられた場所には江戸時代に"黄金堤"と呼ばれる堤防が気付かれています。この護岸工事を指揮したのが忠臣蔵で有名な吉良上野介義央になります。

現在では黄金堤周辺は工場団地として開発されてしまっている為、正直な所、こんな小さな堤防で何がかわるの?と思ってしまうのですが、山を切り開く前の地図と対比してみてください。黄金堤が綺麗に山間を塞いでいるのがわかっていただけると思います。

矢作川、広田川、須美川が黄金堤のすぐ北側を流れていて、大雨が降るたびに河川が氾濫してこの山間に濁流が押し寄せたそうなんです。そこで、吉良義央が隣藩である西尾藩にこの山間に堤防を築く事に承諾を得ようとしたところ、反対されます。

そりゃそうですよね・・・、今まで川が氾濫した時、濁流は隣の吉良領に流れ込んでいて西尾藩は助かっていた訳ですから、堤防を築かれて困るのは西尾藩になる訳で、堤防建設に賛成するわけがありません。

その後の交渉の結果、堤防建設の工事を一日だけ認めさせました。西尾藩にしてみれば、一日で堤防が完成するわけがないと思っていたはずです。しかし、吉良荘の住民総動員で堤防建設に挑みます。途中、西尾藩の妨害工作もあったのではと想像します。しかし、吉良荘の人たちは西尾藩の嫌がらせにも負けず、一日で約180mの堤防を完成させました。

現在では、治水工事が行われて、黄金堤から須美川などは少々離れた場所を流れています。

 

この堤防のおかげで吉良荘8000石は豊かな田園風景が広がる場所になったといい、黄金色の稲穂が首を垂らしている事から"黄金堤"と言われるようになったんだとか。

この黄金堤のおかげでこの周辺の風景も一変したんだと思います。
というか、変わりすぎてこの場所が元々谷だったなんて想像できません。

しかし、同じ場所に、方や戦の跡地、方や民の為の治水工事・・・

光陰両方の歴史舞台がそろっている場所も珍しいかもですね。

資料ではこの黄金堤を本当に吉良義央が建設したのかはっきりしないんだとか・・。
でも、「この堤防は吉良さまが作ってくださった。」これでいいじゃないですか。

-西尾市