神社紹介
神社名 | 高倉神社 |
鎮座地 | 西尾市平口町奥川五十番地 |
御祭神 | 高倉天皇 |
旧社格 | 村社 |
創 建 | 天和三年(1683年) |
神名帳 | - |
境内社 | 神明社、弁財天 |
例祭日 | 十月二十日 |
御朱印 | - |
H P | - |
参拝日:2010年10月24日
再訪:2017年10月31日
記事更新:2020年2月20日
矢作川神社巡り紀行
愛知県の中央を流れる矢作川。その矢作川近くに鎮座している神社を紹介していく企画。中々更新が進んでいきませんが、着実に参拝、取材は進んでいますので、のんびりとお楽しみ下さい。
御由緒
西尾市平口町・・・高倉神社前に掲げられていた案内板には、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落ち武者がこの地に流れ住んだと伝えれ、平家の「平」と旧矢作川河口の「口」からこの地を「平口」としたと伝えられているとか。
矢作川の河口は、矢作川からもたらされる大量の土砂により、かなり遠浅な海が広がり、室町時代の頃から徐々に干拓事業が行われていた様です。そこに、江戸時代に反乱を繰り返す矢作川の治水事業として西尾市八ツ面から放水路(現在の矢作川)が建設され、新たな河口にも大量の土砂が供給される事になります。遠浅になっていく河口付近と土木技術の発達が相まって室町時代後期~江戸時代に入ると今まで以上に干拓事業が行われていきます。どれくらい干拓されたかといえば、それまでの海岸線より4kmほど沖合まで干拓&埋め立てが行われています。旧一色町の大半は干拓地だった程です。
矢作川による干拓図というのがあってそれをみていると、丁度高倉神社が鎮座している辺りは昔から本地であり、海岸線近くだったことがわかります。そこから何百年の月日をかけて干拓事業を行った結果、今では海岸線から4kmほども離れた場所に変わってしまっています。
「西尾市の海岸線沿いは干拓事業で昔とは大きく海岸線が変わっているんだぞ」このキーワードを覚えて頂くと、西尾市の海沿いの神社、寺院の由緒を読んだ時、理解しやすいかと思います。
話が脱線してしまいましたが、平口という場所は、そんな海岸線で矢作川の河口からも近い場所だったことがわかります。勝手なイメージなんですが、確かに平家の落ち武者が住み着いて集落を作りそうな場所だなと・・・。そして、自分たちの守護神として、平清盛の娘「平徳子」とその主人である「高倉天皇」を祀っていたのではないでしょうか。もしかしたら「平徳子」の守護隊だった者がこの地にきたのかもしれませんね。表立って「平徳子」を祀る訳にもいかないので、「高倉天皇」を通じて「平徳子」を祀っていた可能性もありますね。(まるで隠れキリシタンみたいですが)
ここで愛知県神社庁発刊の「愛知県神社名鑑」を見ると
社伝に霊元天皇の天和三年(1683)新社殿を建て建立とあり。桜町天皇の延享二年(1745)二月、復殿を新設した、とある。明治五年十月十二日村社に列格した。昭和五十六年、社務所を改築する
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」
とあります。この内容を読む限りでは、自分たちだけが奉安していた社を壇ノ浦の合戦からおよそ五百年後の天和三年(1683年)に新たな本殿を造営して神社として建立したと考えられます。
高倉神社の境内には、西尾市観光協会が設置した案内板があるので、そちらを見てみると、
神社の創立期は定かではないが、祭神は高倉天皇であり、姫社には后「平徳子」を祀る。
徳子は当時、全盛を極めた平清盛の娘であり、平口町は古くから平家と何らかの関係があったものと推察される。
平口の地名も平氏の「平」と旧矢作川河口の「口」によるとの説もある。
秋に行われる天狗祭はとくに有名である。
修法寺は下矢田町養寿寺の三世、智弘上人(室町時代)の発願により建立されたもので、開祖は恵験寺の受翁宗伝と伝えられている。
宝暦二年(1753)に定めた「西条吉良観世音菩薩巡礼」第十四番札所として、民衆の信仰をあつめ、現在に至る。
また寺には、奈良時代前期、白鳳期(645~710)の特色を持った金銅仏で、通称「白鳳観音」と呼ばれる県内で再婚小銅造菩薩立像がある。昭和六十二年県文化財指定
境内「西尾市観光協会」設置
「高倉神社と修法寺」案内板より
とあります。
修法寺は霊松山と号する浄土宗西山深草派の寺院です。下矢田町養寿寺の末寺。開創の詳しい年代は不明ですが、寛文十二年(1672年)までには建立されているようです。幡豆郡福地村史には「受翁宗伝は恵験寺十四世で修法寺は隠居寺として建立。受翁は寛文十二年十一月帰寂」と書かれています。
となると、高倉神社は遷座したとは由緒に書かれていない事から、修法寺の境内に建立されたことになるわけです。江戸時代になり干拓が進み、平口周辺の人口が増え、地域の鎮守社として新たに修法寺の境内に社を建て修法寺を別当として「高倉神社」を建立したと考えていいのかもしれません。
2020.02.20追記
参拝記
愛知県道312号荻原巨海線の北側に鎮座するのがこの高倉神社になります。前回紹介している「山上神社/紹介記事」からはわずか200mほど北西に進んだ場所になります。
この高倉神社は、上記由緒にも書いてありますが、天狗堂が奉納され、三河大天狗として徐々に認知されてつつある神社でもあります。が、この神社はこの辺りの神社とはかなり一線を画している造りになっています。
それは・・・
案内図をご覧ください。
分かりにくいとは思いますが、何か感じませんか?
高倉神社の境内と修法寺の境内が混在している様に見えます。お寺の境内に小さな神社の祠が鎮座していたりするのはたまに見かけますが、村社に指定されたような大きな神社と寺院が混在している所は少ないかと思います。
明治政府の神仏分離政策で、神社の境内にある仏教色のある物は地域によって程度はあるにしても、排除されています。これが廃仏毀釈にも通じる訳ですが・・。また、境内を分割して神社は玉垣で囲み、神社と寺院のすみわけをしている場所も多いわけですが・・・ここは混在と言っていい感じになっています。神社社殿のすぐわきに観音像が鎮座していたり、なかなかほかの神社では味わえない感覚ですね。
ストリートビューで神社周辺の雰囲気を感じて下さい。
境内入口からは県道312号線を行きかう車を見ることができます。
社号標の裏側に三河大天狗の石碑が見え隠れしていますね。
昭和五十九年に平口町出身の実業家「榎本重市」氏が天狗堂をこの高倉神社の一角に建立、祭祀した物です。その後、由緒にも出てきた天狗祭が始まったそうです。
高倉神社と天狗ってなんの関係もなく、一個人の想いを込めた天狗のお祭りがどこまで浸透しているのかはわからないですが、なんだかんだで30年以上も続いているらしいので、これはもう伝統行事って事になる・・・のかな?
そもそも・・・天狗って神なのか?
境内入口
鳥居の柱の幅に合わせて石造物が整然と並んでいます。
これは見ていても気持ちがいいですね、
社号標
大正六年建立の旧社格が彫られた社号標。
綺麗な書体で彫られていると思います。
鳥居
大正六年建立の神明鳥居が鳥居がお出迎え。
建立年月が境内外向きに彫られている鳥居も珍しいかな?
手水舎・水盤
四本柱タイプのコンクリート製銅葺の手水舎になります。
狛犬
昭和五年十月六日生まれの子乗り、玉乗りの狛犬一対
社殿
改めて、正面から社殿を望みます。
入母屋造、瓦葺、平入、高覧付きの廻縁の設けられた拝殿になっています。
ここの拝殿は、斗栱(ときょう)と呼ばれる木組みが自己主張するかのように白く塗られていています。ちなみに、斗供とは軒の荷重を支えるために設けられるものです。
また、木彫りの彫刻も掲げられているのですが、鳥よけの緑色の金網が着けられていて、ちょっと残念・・・。
扁額と彫刻と言いたい所ですが・・・金網で見えないですね。
境内社
社殿向かって左手、社務所脇に鎮座する神明社
社伝向かって右側に鎮座する弁天社です。
こちらは入母屋造、妻入り、銅葺の祠です。
懸魚・鬼瓦
懸魚に対してかなり大きめな鰭付きの蕪懸魚です。
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修法寺 観音堂・慈悲大観音
社伝すぐ脇にある観音堂です。
このお堂の中に白鳳時代の観音が安置されています。白鳳時代・・社会の時間に習った記憶は残ってますか?案内板には645年~710年の間を指すと書いてあったので、大化の改新から平城京遷都までの時代を指します。
そんな歴史のある物がどういった経緯でこの寺院で安置されているんですかねえ。こういった所が歴史の面白い所ですね。
観音菩薩の説明書きです。銅像菩薩立像というらしいです。
更に観音堂の奥には慈悲大観音が・・。
三河大天狗
先にも述べましたが、昭和五十九年、平口町出身の実業家「榎本重市」氏が天狗堂を建立しました。その天狗堂が高倉神社の裏手に鎮座しています。
道路を隔てた反対側になるので、一応境外地ということになるんでしょうか。
一瞬、稲荷社と間違えそうな、赤い幟が道路脇を埋めています。
まさに本殿のすぐ裏側にこの天狗堂があります。
この社号標・・・すごくないですか?
しっかりと天狗の鼻が伸びてます。
鬼瓦にも天狗が・・・。
社、祠の中を撮影することは基本的にしないんですが、ちょっとここは思わず写真を撮ってしまいます。それくらい迫力がありますよ。
参拝を終えて
神仏習合時代の雰囲気が味わえる様な気がする神社かな?と思います。
そして何よりも、天狗ですよね。
そう・・・天狗・・・・あえて、もう一度言います・・・
天狗って神なのか?
そんな天狗は置いといて、この高倉神社の祭神・・覚えてますか?
高倉天皇でしたよね。さらにその后、平徳子 が姫社に祀られています。高倉天皇、平徳子とは?
正直自分もあまり存じなかったんですが、壇之浦の合戦で海の入水された安徳天皇の事は歴史の授業でも出てきたかな?と思うんですが、その安徳天皇の両親で第八十代天皇と皇后になります。(安徳天皇は八十一代)まさに平安末期、鎌倉時代が目前の時期の天皇という事になります。
その当時、時代はまさに平家の絶頂期、平家の首領は平清盛でした。平徳子とはまさに平清盛の娘になります。
高倉天皇は、壇之浦の合戦以前に病で死去。齢二十歳だったそうです。
皇后だった平徳子は、安徳天皇と共に壇ノ浦の合戦の際、入水したそうですが、源氏方に救出され、出家されたそうです。
そんな平家に関係する高倉天皇と皇后がなぜこの地で祀られているのか。由緒書きにもそういったいきさつは書かれていません。案内板にあった平口町の「平」は平家の平・・・この神社が鎮座するあたりは、平家の隠れ里だったんですかね・・・。にしても、なぜ安徳天皇や平清盛ではなく、高倉天皇だったのか・・・。謎が謎を呼ぶ神社ですな。
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所在地を地図で確認
神社名 | 高倉神社 |
鎮座地 | 西尾市平口町奥川五十番地 |
最寄駅 | 名古屋鉄道 西尾線「福地駅」徒歩32分 |
「矢作川紀行」次の目的地は?
どんどん矢作古川右岸を遡上していきます。次は西尾市横手町に鎮座する「神明社/参拝記事」になります。