矢作川神社巡り紀行 西尾市

久麻久神社(西尾市八ツ面町)

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

神社紹介

神社名 久麻久神社
鎮座地 愛知県西尾市八ツ面町麓七十七番地
御祭神 須佐之男命、大雀命、熱田大神、豊宇気昆売神、伊邪那美神、菊理比咩神、奥津日子神、奥津比売神、火産霊神
旧社格 郷社
創 建 不詳
神名帳 延喜式神名帳「参河國播豆郡 久麻久神社二座」
境内社 天満社、稲荷社、山之神社、御鍬社
例祭日 四月十五日
御朱印
H P

参拝日:2018年10月22日

久麻久神社 宮司さんのブログ


https://zinzya.exblog.jp/

御由緒

「参河郡村正記」に崇神天皇の代に久麻久ノ連が丹後国与謝の里より来て、此の地を開拓し一社を小丘に設けた。と「延喜式神名帳」小社、久麻久神社幡豆郡とあり。古くは大宝天王宮を合祀して、大宝天王とも称し又鎌倉期(1249年)には、源義家の六世滿氏はこの荒川の地を領して荒川と名乗り、崇敬篤く荒川大宝天王と称す。安土時代(1592)に荒川甲斐守は七十貫余の社地と寄進、徳川家光二十九石を朱印寄進する。徳川中期(1751)には久麻久上ノ社といったが、明治六年久麻神社に復し、同六年十月三日、大宝天王に戻り、明治十一年七月九日、久麻久神社に復した。郷社列格は明治六年三月である。
大正四年十月十五日、字市場の竈神社と字新御堂の神明社と字麓の白山社を本社に合祀した。

「愛知県神社名鑑」より


往古は吉良山(今の八ツ面山)の絶頂に西向きに鎮座ありしが、永禄年間、徳川家康岡崎在城の時、家臣鳥居元忠(荒川城主)をして山の東方半腹現在の場所に奉遷せしめ、東向きに改めたりと。当社は大宝年間の感情と口碑に伝えられ、天王又は大宝天王を称せしが後世村名「荒川」を冠して荒川大宝天王と称するに至り。又領主荒樫の尊信極めて厚かりしより或いは荒川屋形天王とも呼びしものも如し。維新の際、天王号を廢さるるに及び、延喜式神名帳に所載の久麻久神社二座の内の一座なりとの故を以其筋の認可を得て、久麻久神社と改称したり。

「幡豆郡西尾町誌」より

矢作川紀行

熊味町の久麻久神社から八ツ面山周辺を治めていた荒川氏所縁の真成寺、荒川城跡を経て、八ツ面町鎮守の久麻久神社にやってきました。元々は八ツ面山山頂に鎮座していたそうなのですが、荒川氏追放後の荒川城主の鳥居元忠によって、山頂から東側の中腹あたりに遷座されています。

この八ツ面山は雲母が取れる山という事でも知られていて、写楽の浮世絵にも八ツ面山産の雲母が使われているんだとか。かつては朝廷にも献上されたという八ツ面山の雲母なんですが、なんと明治三十三年まで発掘されていました。雲母発掘の為の坑道で崩落事故が発生してしまった為、発掘を終了したそうです。中止になっても雲母の発掘坑道はそのままになっていたそうで、昭和六年この発掘坑道に小学生が落ちてしまう事故が発生してしまい、一ヶ所を除いて埋めてしまったそうです。

この残された八ツ面山の雲母坑は西尾市の文化財(史跡)の指定を受けています。

https://www.city.nishio.aichi.jp/index.cfm/8,2114,91,408,html

今でも、八ツ面山を散策しているとキラリと光る雲母を見付けることができるんだとか。

久麻久神社鎮座地地図

参拝記

県営八ツ面住宅の北西側に久麻久神社に通じる石階段があります。
久麻久神社の鎮座する八ツ面山は、八ツ面公園と整備されていて、遊歩道などが整備されています。その為、久麻久神社の境内入口は三方向に設けられているのですが、上記写真の場所から階段を上がっていくと、拝殿正面に出ることができるので、当ブログでは、ここから参道が始まるとさせて頂きます。

参道入口

久麻久神社の境内に通じる参道の石階段になります。
何段続くかは・・・上っている時は数えていたんですが、参拝している間にすっかり忘れてしまいました・・・。

登った先にかすかに鳥居が見えますね。あの鳥居の所に参道を横切る感じで八ツ面山公園の遊歩道が走っています。

鳥居

扁額は設けられていない明神鳥居です。
階段を上り切ったすぐの所に鳥居が設けられているので、登っていくと中々の迫力があります。

社号標

「郷社式内久麻久神社」と彫られた社号標になります。
彫られている文字が中々達筆です。

境内入口

鳥居を潜り、遊歩道を横切ると、さらに石段が続いています。登った先に拝殿が見えていますね。

石段を登りきると拝殿の正面に出てきます。

手水舎・水盤

コンクリート製四本柱タイプの手水社になります。手水舎の形状が正方形で、更に水盤も正方形になっています。
ただ、手水舎だけコンクリート製でちょっと浮いている感じなんですよね。

祓所

神籬の榊を玉垣が囲んでいる祓所になります。
この様式の祓所をみるにつれいつも思うのが全国的に祓所ってこんな感じなのか?って事なんですよね。これも三河地方独特の様式なのかなあ・・・。

狛犬

大正六年生まれの狛犬一対になります。

ここ久麻久神社には、愛知県の指定文化財になっている「陶製狛犬」が一対保存されています。室町時代中期の作なんだそうで、一度見てみたい狛犬ですね。

文化財ナビ愛知の陶製狛犬のページ


https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kougei/kensitei/0535.html

神楽殿

切妻瓦葺の建物に鉄製の廻縁が設けられた形の神楽殿になります。
朱塗りの廻縁が非常に目を引きますね。

社殿

入母屋造瓦葺平入の廻縁の設けられた拝殿になります。
知多四国霊場を巡礼している時に神社も併せて参拝しているのですが、知多半島の神社様式と三河地方の神社様式って微妙に異なっているんですよね。ただ明確に違うと言えるだけの神社を参拝してきているわけではないのであくまでも自分の感覚の話なんですが。

全国とは言わないまでも、愛知県の中で神社の建築様式の地域差なんかも当ブログで紹介できるようにしていきたいと思います。

パッと見ると流造?と思ってしまうのですが、よく屋根を見て頂くと、入母屋造平入で向拝の設けられた本殿になります。非常に特徴的な本殿になりまして、国の重要文化財に指定されています。

文化財ナビ愛知の久麻久神社本殿のページ


https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunisitei/0026.html

境内社

社殿から左側(向かって右側)に「天満社、稲荷社、山之神社、御鍬社」の境内社が鎮座しています。

懸魚・鬼瓦

鰭付きの蕪懸魚になります。ここの鰭はなにやら植物をモチーフにしている様子です。

参拝を終えて

八ツ面山で雲母が産出されることから雲母(きらら)が取れる場所という事で吉良(きら)荘と名付けられたと言います。吉良氏にとって重要な資源だったんでしょう。
残念ながら現在では雲母発掘はされていませんが、まだまだこの山には雲母は眠っているんでしょうね。

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