城跡巡り

緒川城(知多郡東浦町)

2018年10月18日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

城郭情報

城郭名緒川城址
所在地愛知県知多郡東浦町緒川字古城
最寄駅JR東海 武豊線「緒川駅」徒歩11分

沿革・詳細

 戦国時代、愛知を納めていた大名は実は三家あった事はどこまで知られているでしょうか。

  • 尾張国の織田信長
  • 三河国の徳川家康
  • 知多郡の水野信元

 戦国時代に知多半島を統一した水野氏の長きに渡って本城であったのが「緒川城」になります。勢力を拡大していく中で、常滑水野氏、大高水野氏と各地の城を居城とする分家に分かれていきます。

 勢力を拡張している織田信秀に対抗する為、水野忠政は今川家の支援を受けていた「松平広忠」に娘である「於大の方」を嫁がせて同盟関係を結び、織田氏との対決姿勢を見せていましたが、忠政が亡くなり、水野信元が家督を継ぐと、これまでの方針から一転し織田信秀との間に同盟を結び、松平広忠との間の同盟関係を破棄します。この為、広忠は於大の方と離縁する事になり、於大の方は水野氏の領地に戻ることになります。

 水野氏は、当主である「水野信元」が天正三年、織田家筆頭家老であった「佐久間信盛」の讒言により武田勝頼の武将の秋山信友との内通や兵糧を輸送した疑いで、織田信長から命を受けた徳川家康によって「大樹寺」にて殺害され、所領は佐久間信盛に与えられ、一度は大名としての水野氏は断絶。しかし、その後、佐久間信盛が「十九ヶ条の折檻状」によって追放されると、織田信長より旧水野領は信元の弟「水野忠重」に与えられ、復興しています。

築城年文明年間(1469-86年)
築城主水野貞守
城形式丘城
遺 構土塁
規 模
登城日:2018年5月16日
再 訪:2021年7月28日(御城印受領)

 初代緒川城主水野貞守が文明年間(1469~1486年)に築城して以来,約130年間水野氏の居城でした。慶長十一年(1606年)、最後の緒川城主水野分長が三河国新城一万石に移封となり、緒川城は廃城となりました。
緒川城は、海岸沿いの平地を裾野にもつ低い山の中腹に築かれ、城下町と一帯となった平山城でした。城跡の周囲は三方が山地形で、東側は急な崖になっています。緒川城に関する史料として、江戸時代初期に描かれた「緒川村古城絵図」(名古屋市蓬左文庫所蔵)があります。絵図には,土塁(土を積み上げて築いた城壁)と堀に囲まれた大小の曲輪(郭)が描かれています。中央から南の一段と大きい曲輪が城の中核をなす主曲輪で、東西83m・南北95mほどの方形状である。北の曲輪群は家臣の屋敷地で、その一画は、分長の時代に居城とされ、「高藪城」と呼ばれてました。
今この地域は住宅地になっており、土塁の一部が残るのみとなっていいます。

現地案内板より

訪問記

東浦町役場から350mほど住宅地の中を進んだ先にあるのが緒川城址になります。
車で訪問される際は、役場の駐車場に車を止めて徒歩で向かうのがいいと思います。(周囲は道も狭く、駐車スペースは皆無です。)


現地の案内板になります。
現在の城跡からはまったく想像できませんが、曲輪の感じからかなり大きな城だったことがわかりますね。

境川を挟んで三河国側には刈谷城があり、緒川城と合わせて、尾張、三河の国境を支配していた事がわかります。

こちがら、現存する土塁跡になります。
土塁が壊されて、平坦な住宅地になっている場所から見ると、かなり高く盛られた土塁であることがわかります。戦国期を生き延びて、江戸幕府初期まで存続していた緒川城なので、城郭としてもかなり整備されていたんだと想像してしまいます。

緒川城址南側に建つ、伝通院於大出生地の石碑になります。

時代の波に翻弄された於大の方に関連する史蹟が、東浦町、刈谷市に点在していますので、こちらも紹介していきたいと思いますので、ご期待ください。

御城印

配布場所東浦町観光協会/知多郡東浦町大字石浜字岐路28-2

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