城跡巡り 常滑市 常滑郷二十一大師

常滑城址と正法寺(愛知県常滑市市場町)

2019年10月15日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

城郭情報

城名 常滑城
所在地 愛知県常滑市市場町五丁目七
築城年 文明元年(1469年)~享禄ニ年(1529年)
築城主 水野監物忠綱
城形式 平山城
遺構
規模 東西七十五間、南北十一間

訪問日:2019年10月9日

沿革・詳細

戦国時代の初め小河地方(東浦町緒川)の豪族、水野氏が常滑に進出し、この地に城を築いた。
その規模は徳川時代の古地図「常滑村古城の図」にあるように現在のINAX山方工場の西の台地から現在地までである。
初代城主忠綱公は大和守監物(名不詳)を二代城主にして隠居し頭を丸め僧となり城の西端に庵をたて、恩師天澤院の住職の位牌を祀ると共に伊勢湾を航行する船の監視を兼ねていたと思われる。
豊臣時代に廃城となった後も住民は水野家三代の遺徳を偲んで庵を地蔵堂(正法寺)として今日まで守り続けて来たのである。

常滑の史跡を守る会による説明板」より

所説ある様ですが、小河城主"水野貞守"の次男"水野政祖"から始まる水野家庶家を常滑水野氏と呼ぶようです。水野政祖を初代として、二代目である"水野忠綱"が常滑城を築城します。ただ、何時頃築城したのかは不明ですが、忠綱は 享禄ニ年(1529年)七月二十三日に死去しているので、これ以前には常滑城は築城されていたことになります。

水野政祖 - 忠綱 - 大和守合監物 - 守次

水野守次の代には織田信長の配下に加わっていた様で、順調に戦果を挙げていた様ですが、本能寺の変の後、明智光秀に与した為常滑城を退去しています。

常滑城を退去した水野守次は嵯峨の地に逃れ、この地で千利休などと茶の湯を悦しんだが、慶長三年(1598年)四月に豊臣秀吉の命により切腹を命ぜられています。

菩提寺は京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町60にある「永明院」になります。

守次が退去した常滑城は織田信雄が支配する事とになり、城主として"岡田重孝"が入城します。重孝は信雄の重臣の一人ですが、秀吉と内通の嫌疑の為、信雄に謀殺されてしまい、これが小牧長久手の戦いの切っ掛けだったとも言われています。一説では、城主の岡田重孝亡き後城主を継いだ重孝の弟"岡田善同"は反信雄の態度を取っていたのかなと思われ、その後、刈谷城の水野忠重により常滑城は攻め落とされています。

その後、常滑城は徳川家康の支配下となり城主として"高木広正"が入城します。しかし、徳川家康の関東移封の時に、高木広正も関東に移った時、常滑城は廃城されています。

知多四国霊場を行く~寄り道遍~

知多四国霊場六十三番「補陀洛山大善院」に「常滑城」の鬼門除けとして城主水野忠綱氏の守護神である牛頭天王を奉安し、大善院を再興したという寺伝が残っています。現在でも大善院の中之院に祭神「素戔嗚尊」として祀られています。

大善院からは南西に位置する所に常滑城址があり、石碑が建っているという事でしたので訪問することにしてみます。

訪問記

大善院から県道34号線を西に向かい、満覚寺という真宗大谷派の寺院の前の路地を左折して少し進むと、常滑城址が見えてきます。
元からこんな切り立った崖ではなかったと思うのですが。市街化による都市開発で削られてこんな切り立った崖の様になったのかなと想像します。

常滑城址には、丁度見切れている常滑市防災倉庫の脇から階段を使っていく事ができます。

遺構などは残っておらず、常滑の史跡を守る会による石碑と案内板が据えられています。ほかの方のブログを見てるとこの石碑周辺は公園となっていた様なのですが、自分が訪問した2019年10月時点ではソーラーパネルが設置されていて公園としては使われていない様でした。

石碑が建っている場所から東にある「桃源寺」周辺までが常滑城の城域だったようです。

現地にあった案内板に書かれている常滑城の縄張り図をみていると、常滑城は東西に長かった城であることがわかりますね。

現地に建つ「常滑城跡」と彫られた石碑になります。

焼き物の産地として有名な常滑。石高的にはニ万石もなかったと言われていますが、常滑焼と呼ばれる焼き物がもたらす金銭は十万石にも達すると推定されるほど、常滑城を治めていた"常滑水野氏"は莫大な資金力を誇っていたと考えられます。そんな常滑焼も海運によって全国に輸送されたはずであり、常滑城から見下ろす海岸には港も整備されていたんだと思います。

現在では、その常滑の海岸には、沖合に中部国際空港が作られ、空港にアクセスするために海岸線から埋め立てが行われて"りんくうタウン"が整備されつつあります。(りんくうタウンには、イオンモール常滑、コストコ、めんたいパークなどが建っていますね。)

フェンス越しにみえる沖合に浮かぶ島?が中部国政空港(セントレア)になります。
個人的にはまず飛行機に乗ることがないので、近くて遠い場所なんですよね・・・。

振り返ると、ご覧の通りソーラー発電所となっています。
東日本大震災以降急激にその数を増やしたソーラーパネルによる太陽光発電所なんですが、環境にやさしいと言われている再生可能エネルギーでもあるのですが、休耕地や建物が建てられない様な場所の有効活用としては非常に素晴らしいと思うんですが、こうやって間近で見ると景観が良い物ではないですねえ。

正法寺(常滑郷廿一大師十五番札所)

寺院情報

寺院名 正法寺
所在地 常滑市市場町4-64
御本尊 地蔵菩薩
宗 派 西山浄土宗
創 建 不明
札 所 常滑郷廿一大師 十五番札所
御朱印
H P

参拝日:2019年10月9日

沿革・由緒

常滑城址の脇に立つ西山浄土宗「正法寺」になります。常滑城主であった水野氏三代の遺徳を偲んで常滑郷の住人たちによって建立されたと伝えられています。
色々調べているのですがはっきりとした由緒は不詳なんですが、ここ法正寺は「常滑郷廿一大師」の札所になっている様です。常滑城の鬼門除けだった「補陀洛山大善院」が一番札所となり、常滑郷全体を霊場とする二十一大師霊場です。

次の目的地は?

初代常滑城主「水野忠綱」が菩提寺として建立したと伝えられている「宝壷山天澤院」を訪れていこうと思います。こちら天澤院には忠綱、大和守合監物の二代の墓石があるそうです。三代目である守次の墓は前述している様に京都の「永明院」にあります。

こちら「宝壷山天澤院」は知多半島全体を霊場としている「知多本四国移霊場」の二十九番札所になっています。

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