古墳巡り

青塚古墳と経塚古墳(愛知県額田郡幸田町)

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 大久保彦左衛門忠教が知行地の陣屋として建てた「坂崎陣屋/紹介記事」の守護神と奉祀する為に八百富社が同じ坂崎の天神山から遷座されたのが坂崎陣屋の南型にある「経塚古墳」の墳丘上でした。そして、八百富社は現在の境内地に遷座するまで、およそ300年程経塚古墳の上に遷座していました。

 そして、経塚古墳は、さらに南にある「青塚古墳」の陪塚であるとされている古墳になります。

陪塚とは?
大型の古墳を主墳とし、それに付属する規模の小さい古墳の事を指します。その多くは一連の造営工事によって、主墳とほぼ時を同じくして築造されています。主墳に埋葬された自分と関係のある自分が埋葬されていたり、埋葬者の権力を示す武器や農機具などが埋められていたりしています。

 陪塚が造られるほどの権力を持った人物がこの地にいたという事なんですね。という事で?今回はこの二基の古墳を紹介していきたいと思います。

青塚古墳

 まずは、主墳となる「青塚古墳」を見ていこうと思います。自分の記憶ではよくある古墳の姿と言っていいかと思いますが、「古墳上に木々が茂ってしまいその古墳の形などが分かりにくくなっている。」とまさにこんな感じの古墳でだったはずなのですが、数年前古墳の保全の為という事で古墳上の木々が伐採され、更に発掘調査も行われた事もあり、古墳のすぐ西側を走る「国道248号線」を車で北上していても車内から古墳を確認できるほどの状態となっています。

 その感じがわかるのはやはりGoogle先生のストリートビューですね。

 ストリートビューを見ていたら、曇天という事もあるのか思いのほか青塚古墳が分かりにくかったので、スクリーンショットで青塚古墳を矢印で示してみました。実際車で走っていると、何かあそこにあるなってわかるんですけどね。ただ、この「何か」が問題で、古墳という答えを知っている自分は木を伐採してしまうと、姿は解りやすいけど土砂は雨とかで流出しちゃわないのかな?とか思う訳ですが、古墳だという答えを知らない人から見たらあの小高い土山?を見て古墳だとわかる人は中々いないのかもしれません。この辺が小中規模の古墳が気付いてもらえない要因なんでしょうね・・・。

 先ほどのストリートビューとは異なり、西側の場所から青塚古墳を望んでみます。なにやら古墳の手前に切妻造の参拝所が設けられている様です。宮内庁管理の古墳以外でこういった拝礼所が設けらている古墳ってかなりレアな感じがします。

2017年に幸田町教育委員会により88年ぶりに発掘調査が行われた様です。
当時の報道記事によると、

 青塚古墳は前方後円墳で5世紀後半から6世紀初頭に造られたとされる約20メートルが地表に出ている。
 明治43(1910)年、耕地整理中に石室が見つかり、中から人骨や副葬品が出土。大正12(1923)年に外部表面の土器採集や聞き取りによる地形復元・実測調査、昭和4(1929)年に石室内の発掘調査を行った。町教委生涯学習課によると、町内にある約100カ所の古墳のうち、前方後円墳は青塚古墳のみで規模は町内最大。
 7月3日に始まった調査では周辺の5カ所を掘り起こし、土質の違いや出土品の量、状態などから古墳をはじめ、周辺にある溝の形状や範囲を調べる。
 町教委は22日に現地説明会を開き、同課の学芸員が町内外から訪れた約90人に、8月中旬まで続く調査の途中経過を報告した。
 学芸員は「耕地整理によって古墳が大きく削られている部分もあるが、大きさは大正12年の調査で推定された127尺(約38.4メートル)に近い規模」と推測。また埴輪が多く出土する場所が見つかり、古墳の「全容を示すヒントになっている」などと説明した。正確な形状や規模、詳細な築造時期などが不明で、「継続して調査を進める必要がある」と話した。

東海愛知新聞2017年7月23日付より

とあり、全長38.4m前後の前方後円墳だったみたいですね。40m弱となると小さめな前方後円墳といった印象ですが幸田町にある古墳では最大の規模を誇っているようです。

 近づいてきました。石灯篭も設けられていて、やっぱり拝礼所のようです。
 この写真の古墳手前側が前方部分になり、その奥が後円部分になるようです。明治四十三年に耕作中に石室を発見したとありますが、当時は古墳上も畑として使用されていたという事なんでしょうか。当時は石室が見つかるまで古墳と認識されておらず、石室が見つかった為耕作が中止となったという事なのかな?

 後円部分脇には幸田町教育委員会が設置した案内看板がありました。これによると

 本墳は六世紀初頭頃に菱池沼東部農業共同体の最も有力な者の墓として築造された。一見、円墳のように見えるが、幸田町では唯一の前方後円墳である。
 明治四十三年と昭和四年の二回発掘されており、石室は最も古い形式の竪穴式石室である。出土遺物には、直刀、硝子製小玉・金銅銙・鹿角製柄頭・水鳥埴輪および人骨がある。
 青塚という呼称は、「王塚(オオツカ)」から転訛したものとも考えられる。

 と書かれていました。
 これを読んでふと思ったのは、当サイトで既に紹介している安城市にある「桜井古墳群」とはもしかしたら系統が異なるのかな?という事です。桜井古墳群の方では大半の古墳で埴輪が見つかっていないという特徴があるわけですが、案内板にある様に、青塚古墳では埴輪が見つかっている辺り、大和朝廷の影響がかなり強くなってから築造された古墳の様に感じます。

古墳名青塚古墳
所在地愛知県額田郡幸田町大字坂崎字弁天
形状前方後方墳
規模全長38.4m
指定・種別幸田町指定史跡

経塚古墳

 さて、大塚古墳を見学し、北に向かい再び坂崎陣屋方面に向かいます。新しくできたセブンイレブンの市道を挟んで南側に「経塚古墳」があります。古墳の南半分は鉄工所の敷地になっているようです。元々は八百富社の境内地であったはずなのですが、どういう経緯でこんな感じで売却されたんですかね。

 前述したように、こちらの経塚古墳は大塚古墳の陪塚として築造されたと考えれているそうです。ただ、こちらの古墳に石室があったかどうかは不明ですが、墳丘上を見ると非常数多い石材が転がっていて、石室に使われていた石なのかな?と思ってしまいます。

 元々は八百富社の本殿が鎮座していましたが、現在では「征清記念碑」が据えらえています。いまでも墳丘上は八百富社の境外地なのかな?

ここ経塚古墳にも幸田町教育委員会による案内板があります。

 近くの青塚古墳(南方百メートル)の陪塚(従者の古墳)として設けられたものと考えられている。
 縦ニ三.四メートル、横十八メートルの中央に封土を高く積み、昔は東、北、西の三方に周濠をめぐらしていたと考えられている。現在も古墳の原型をよく残している。
 日清戦役の直後、戦役記念碑を建設した際、一字一石経と呼ばれる墨書きされた扁平な小石が発見された。
 上代の古墳の上に、中世経塚が作られ、その上に記念碑が立てられた。

 まあ、八百富社の境内地として使われていた過去がある訳ですから、墳丘上から経塚が発見されても何も驚く事ではないのかなって感じです。

古墳名経塚古墳
所在地愛知県額田郡幸田町大字坂崎字弁天
形状円墳
規模縦23.4m 横18m
指定・種別

地図で所在地を確認

古墳名青塚古墳・経塚古墳
所在地愛知県額田郡幸田町大字坂崎字弁天地内
最寄駅JR東海 東海道本線「相見駅」徒歩22分

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