名古屋市昭和区

尾陽神社(名古屋市昭和区御器所二丁目)

2024年11月24日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ONE POINT

名古屋開府三百年を記念して尾張徳川藩初代「徳川義直」と最後の藩主「徳川慶勝」を御祭神とした神社を新たに創建するとして愛知県と名古屋市によって造営された比較的新しい神社になります。

神社情報

神社名尾陽神社
鎮座地名古屋市昭和区御器所二丁目九番地十九号(Googlemap
例大祭十月二十八日
創 建明治四十三年(1910年)
御祭神天照皇大神
徳川義直
徳川慶勝
旧社格縣社
神名帳

境内社

境内社稲荷神社
久延彦神社
龍神神社
秋葉神社

文化財

国 宝
国指定
県指定
市指定
町指定
村指定

参拝情報

御朱印
URLhttp://biyoujinja.com/
駐車場
参拝日2022/4/27

御由緒

 戊辰戦争によって徳川政権が打倒された明治維新によって旧体制であった徳川家(将軍家)を徹底的に否定する事で明治天皇を中心とした明治政府の正統性を主張していたと思っていたのですが、ここ名古屋では尾張徳川家の藩主に対して旧藩士を中心に未だ崇敬対象となっていたようで、明治八年(1875年)に初代藩主であった徳川家康九男「徳川義直」が名古屋東照宮に合祀される事になっています。そして時が経過し、明治三十一年(1898年)に最後の藩主だった徳川慶勝も名古屋東照宮に合祀されています。
 その後、名古屋城開府(築城)三百年を記念して徳川義直、徳川慶勝を祀る神社を創建することとなり、大正十三年(1924年)に現在の社地に遷座創建されています。
 愛知県と名古屋市によって造られた神社という事で、創建当初から縣社に列格するなどかなり政治的意味合いも強かった神社だったのではないかと思われます。それだけ尾張徳川藩の治世が良かったという事だったのかも?

 戦後となる昭和二十四年(1949年)には天照大御神を主祭神として合祀するなど、明治期の神社の意味合いとは少し異なった神社の姿に変わっていく事になります。

  • 明治八年(1875年)  :初代尾張藩主「徳川義直」名古屋東照宮に合祀される。
  • 明治三十一年(1898年):最後の尾張藩主「徳川慶勝」名古屋東照宮に合祀される。
  • 明治四十三年(1910年):名古屋開府三百年記念でふたりを祀る神社創建をする事に。
  • 大正十一年(1922年) :縣社に列格する。
  • 大正十三年(1924年) :社殿が完成し遷座する。
  • 昭和二十年(1945年) :名古屋空襲により社殿が焼失する。
  • 昭和二十四年(1949年):主祭神として天照大御神が合祀される。
  • 昭和四十五年(1970年):社殿が再建される。
  • 昭和四十八年(1973年):徳川家にあった栄世稲荷神社を境内社として遷座する。
  • 昭和五十一年(1976年):大神神社末社「久延彦神社」を勧請する。

尾張藩祖義直公は明治八年六月二十日、慶勝公は同三十一年四月五日、中区茶屋町鎮座の東照宮に合祀されたが、同四十三年名古屋開府三百年記念に砌り愛知県知事、名古屋市長を始め全市民、両公の高徳を敬慕してやまず、別に社殿を造営して神社祭祀の典礼に預からんこと請う朝議之を允し、大正十一年六月三十日、縣社に列格し同十三年十月二十八日、現在の社地遷座の盛儀を拝し同時に神饌幣帛料供進指定社となる。昭和二十年三月、大空襲により荘厳なる社殿を焼失するも順次復興して現在にいたる。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」

御祭神

  • 天照皇大神
  • 徳川義直
  • 徳川慶勝

御朱印帳の保管に

 数年前より非常に集める方が増えた「御朱印」ですが、皆様は御朱印帳はどうやって保管していますか?神社・仏閣を廻って御朱印を受けているとあっという間に御朱印帳の冊数が増えていきますが、そのまま棚などに置いている方が多いのでは?。せっかくお受けした御朱印ですので、日本では古くから着物を始めとして大切なものを保管する為に使われていた「桐箱」に入れて保管した方がよろしいかと思います。

 ぜひ、皆様も桐箱に御朱印帳を保管されてみたらいかがですか?

参拝記

 名古屋市を東西に走る主要幹線道路は何本かあるのですが、その内の片側三車線で敷設された山王通の南側の住宅地の中に鎮座しているのが今回紹介する尾陽神社になります。想像するに、ほぼ公営といった感じで創建された尾陽神社の境内地を決めるのに住宅地の真ん中を選ぶとは考えにくいので、戦後名古屋市街が急速に広がっていく中で住宅地の中に埋没してしまったというのが正解なのかなと思います。

境内入口

 境内全体が石造瑞垣で囲まれていて社号標と由緒書きが据えられ、石段を登った先に扁額の無い明神鳥、狛犬一対が据えられている境内入口になります。由緒を知ってしまったから感じる事なのか、元々から感じたのかは今となってはよくわかっていないのですが、何となく産土神としての神社というより官社としての神社の造りだなーって思えてしまいます。どのあたりが?って聞かれても答えに窮するのですが、色々神社を見てきて氏子の方達と神職の方が長い年月をかけて作り上げてきた神社とは違う顔をしていると感じるんですよね。

 社号標の側面には「御器所西城址」と彫られていました。どうもこの神社の境内は元々織田家の家臣だった佐久間家が治めていた「御器所西城址」だったようです。

御器所西城

嘉吉年間(1441-44年)に佐久間美作守家勝(生没年不詳)によって築城されたとされ、四方を掘と土塁で囲んだ縄張りだったとされ、館城の様な感じだったかと思われます。最後の城主は佐久間玄蕃助盛政(1554-83年)であり佐久間盛政の母は柴田勝家の妹出会った事もあり、賤ケ岳の戦いにおいては柴田軍に属するが盛政は破れて越前の山中で捕らえられ洛中引き回しの後槙島で斬殺された。この時に御器所西城も廃城となったとされています。

西尾市吉良町荻原にある海蔵寺には佐久間盛政の墓であると伝えられている「索麻塚」が無縁仏が集められた場所の一角に静かに祀られています。伝承では、盛政の遺体を家臣の鈴木八郎治が密かに郷里へ持ち帰り、自ら出家をして吉良町荻原に埋めたといい、近年まで鈴木家に屋敷にて供養されてきたようですが、何らかの理由で海蔵寺に移されたのでしょうね。

手水舎

 銅板葺コンクリート造り四本柱タイプの手水舎になります。昭和後期から平成期にかけて社寺建築の主流は木造からコンクリート造りに移行してきた感がありますが、ここにきてまた木造への回帰が進むなど社寺建築のトレンド?も色々移り変わっていますね。昭和四十年代に造られた尾陽神社の社殿はまさにコンクリートへの移行全盛期の頃の造営だったのでしょう。

神門?

 尾陽神社の社殿配置ですこし変わっているのが鳥居と社殿の間の参道部分に銅板葺き木造の袖壁のある四脚門が建っているところでしょうか。勝手な想像なんですが、焼失前の社殿は神明造だったそうなので、御垣内がかなり広くとられていて、この辺りに神門があったのかな~って思うのですが・・・そうだとすると御垣内がかなり広すぎな感もするしどうなんでしょうか。

社殿

 入母屋造銅板葺平入の唐破風の向拝が設けられた拝殿を有する社殿になります。拝殿前に据えられた蝋燭台が尾張地方の社殿であることを示してくれていますが、建物の造形だけみると三河地方の神社紹介でよく出てきた造りと同じ感じがしますね。こうしたコンクリート造り社殿の欠点が地方独特の社寺建築の再現が難しいのか画一的な造りになってしまいがちといった所でしょうか。

境内社

 参道向かって左手に鎮座する稲荷社と龍神神社、秋葉神社になります。

 参道向かって右手に鎮座する久延彦神社になります。こちらの社は春日大社の社殿として造営された物を移築したとか。


遊び予約/レジャーチケット購入サイト「asoview!(アソビュー)」


鎮座地を神社で確認

神社名尾陽神社
鎮座地名古屋市昭和区御器所二丁目九番地十九号(Googlemap
最寄駅電車:名古屋市営地下鉄鶴舞線「荒畑駅」徒歩10分
バス:名古屋市営バス「東郊通三丁目バス停」徒歩5分

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

2022年4月27日遠征紹介

今回は愛知新十名所ではなく名古屋十名所を巡っていく予定で名古屋市を南部から進んでいきます。今回の遠征で名古屋十名所は名古屋城・熱田神宮以外は巡った事になるのですが・・・名古屋城と熱田神宮は有名すぎて当サイトで紹介するまでもない気がするのは自分だけかな?

今回の遠征も中々の件数を巡る事が出来ました。やっぱりバイクの機動力は偉大だなと改めて実感します。

-名古屋市昭和区
-, ,