古墳情報
史跡名 | 八幡山古墳 |
所在地 | 愛知県名古屋市昭和区山脇町1丁目地内 |
所 属 | ー |
形 状 | 円墳 |
規 模 | 墳径82m、墳高10m、周壕幅10m |
築造時期 | 五世紀中頃 |
出土品 | 伝承では埴輪が採取されたというが戦災で焼失。 |
文化財
国指定 県指定 市指定 町指定 村指定 | 史跡名勝天然記念物 |
史跡情報
URL | https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138504 |
駐車場 | ー |
訪問日 | 2022/4/27 |
沿革
古墳名となっている八幡山の名は古墳の南に鎮座する「御器所八幡宮」の奥宮が墳丘上に鎮座しており、何らかの祭事が行われていた事から名付けられたそうです。
八幡山古墳を中心として吹上周辺には古墳が点在していたといい、北側にある名古屋工業大学のキャンパス内には前方後円墳だったと考えられている一本松古墳が存在するなど一種の古墳群を形成しており、古代においてこの辺りを治めていた豪族の中心地があったのだろうと考えられます。それが物部神社や高牟神社などで紹介してきた物部氏に通じているのかは不明だったりしますが。
昭和六年には国の史跡に指定されますが、太平洋戦争中は日本陸軍に接収され、高射砲陣地を作るために樹木は伐採され古墳の頭頂部が削られてしまいます。戦後は名古屋市によって植樹、古墳の整形が行われますが古来からの形状とは異なっているとか。
八幡山古墳
現地案内板より
「指定地面積 10,952㎡」
本古墳は御器所台地上の標高12mの位置に築かれた、東海地方最大の円墳である。昭和六年、国の史跡に指定されている。現在墳丘の直径は約84m、高さは11.5m、壕底の幅は平均8mである。現状の墳丘は戦後の公園整備の際に盛土で整形されたものである。
発掘調査は行われたことがなく、埋葬施設等については不明である。過去に墳丘上で埴輪片(円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪)が採集されており、築造時期は五世紀前半~中頃と考えられている。
御器所台地には本古墳をはじめ、一本松古墳(現名古屋工業大学構内)などを含めた古墳群が形成されており、本古墳はその中心的古墳と考えられる。また、本古墳は全国的にも屈指の規模を誇る円墳である。この規模の古墳の動向を考える上で重用である。
訪問記
鶴舞公園の東側、名古屋工業大学の南側にポツンと小山の様に木々が生い茂っている場所があるのですが、この場所が八幡山古墳になります。何度か古墳脇の道路を走行した事があるのですが、何となく古墳っぽいなとは思っていたのですが、国の指定史跡になっている古墳とは思いもよりませんでしたね。
墳丘の周辺には壕が彫られている事から、一見して山ではなく古墳だろうと推測が出来るかと思うのですが、今まで自分が直に見てきた古墳と異なり非常に整った姿をしているなというのが第一印象だったのですが、現地にある説明を見て、「盛土で整形」という文言で納得できました。
名古屋という都市を米軍の爆撃機からの空爆対策の為にこの墳丘上に高射砲を設置するのは非常に理にかなっているとは思うのですが、墳丘上に設置できる高射砲は回転式だろうから一基しか設置できないはずなので、周辺の古墳や高台に高射砲を設置したとしても絶対的な数が足りてないですし、実際に名古屋大空襲の時にどれだけ役にたったのかは・・・。八幡山古墳に高射砲を設置する為に「頭頂部を削った」と昭和区のHPでは書かれていますが、戦争遺跡で高射砲跡も何ヶ所か見てきましたが「削った」どころではない設置工事が行われたはずですし、もしかしたら石室周辺にも影響があった可能性も否定できないかと思います。こうしてある種魔改造された古墳の姿から本来の姿へ戻すために全体を盛土で覆い整形された八幡山古墳は静かに名古屋の街に溶け込んでいます。
戦前に国の指定史跡となった所ではよく目にする石碑になります。内務省が設置した石碑になるみたいで、全国的に統一した様式となっている・・・はず?この辺りは、愛知県外の史跡を巡った時に紹介できればと思います。
地図で所在地を確認
史跡名 | 八幡山古墳 |
所在地 | 愛知県名古屋市昭和区山脇町1丁目地内 |
最寄駅 | 鉄道:名古屋市営地下鉄鶴舞線「荒畑駅」徒歩9分 バス: |