一色氏発祥之地(西尾市一色町一色中屋敷:安休寺)

一色氏発祥之地概要

 地図では「安休寺」を示していますが、安休寺の塀のすぐ外側に一色発祥の地の石碑が据えられています。

史跡名一色地発祥の地
所在地愛知県西尾市一色町一色中屋敷二番地 安休寺境外
最寄駅名鉄東部バス一色線「一色本町」バス停徒歩2分

一色氏とは?

 鎌倉時代の承久元年(1219年)に鎌倉幕府討幕の挙兵をした後鳥羽上皇を中心とした朝廷側北条義時率いる幕府側が武力で激突した「承久の乱」が発生します。結果は幕府側が一気呵成に東海・東山・北陸の三街道より京都に攻め込み朝廷側は大敗してしまいます。これにより朝廷側についた守護職や地頭職の武将、公家は領地を没収され、新たに幕府側の武将や公家に再分配されることになります。
 そして、三河国の守護職と額田郡、碧海郡、幡豆郡の地頭職に足利宗家三代「足利義氏」が任命されます。義氏は、地頭職を得た三郡に一族を配置し、強固な足利一門による支配構造が確立し、足利家最大の支持基盤となっていきます。

足利家家系図

足利義康┳義清━義実┳実国(二木氏)
    ┃     ┣義季(細川氏)
    ┃     ┗義宗(戸賀崎氏)
    ┗義兼義氏┳長氏(吉良氏)┳満氏
          ┃       ┗国氏(今川氏)
          ┣泰氏┳家氏(斯波氏)
          ┃  ┣義顕(渋川氏)
          ┃  ┣頼氏家時貞氏尊氏
          ┃  ┣頼茂(石塔氏)
          ┃  ┣基氏(加古氏)
          ┃  ┣公深(一色氏)
          ┃  ┗義弁(上野氏)
          ┗義継(奥州吉良氏)
       

 義氏の跡継ぎとして足利宗家を継いだのが「足利泰氏」になります。泰氏は更に三河国の支配を強める為に、七男である「足利公深」を幡豆郡一色郷を与えられ、この一色郷を本貫として「一色公深」と改称します。
 どうやら、一色公深は後に下総国葛飾郡田宮荘幸手に移住し「幸手城」を築き居城したといいます。公深が幸手に移った頃は、足利宗家を継ぐ兄「頼氏」、甥「家時」が若くして没した為、家時、そしてその子「貞氏」と幼少で家督を継ぐことになり、一族の補佐役として呼ばれた可能性がありますね。

 一色氏が一色郷に住んでいた時期は思いのほか短かったようです。

 そして、足利宗家八代「足利尊氏」の時代になると、京都では後醍醐天皇が即位します。この頃の宮中は、朝廷内の権力争いと鎌倉幕府側の意向などが絡み合って短期間で天皇の御代替わりが行われたりしているので、中々理解するのが大変です。

 鎌倉幕府側の大将格であった足利尊氏の後醍醐天皇側への寝返りもあり、鎌倉幕府の討幕が成功した「元弘の乱」、その後の足利幕府方の北朝と後醍醐天皇方の南朝が争う「南北朝時代」へと向かっていきます。
 こうした尊氏の一連の動きの中、一色氏も追随しています。一度は後醍醐天皇に与し、建武の新政と呼ばれる体制にも自らの家臣を送り込んでいた尊氏ですが、後醍醐天皇と考えが乖離するようになると、最終的には建武の新政への謀反という形で後醍醐天皇との対立が始まります。鎌倉にいた尊氏が軍勢を率いて京都に向かい、一時は都を占領しますが、最終的に後醍醐天皇側に敗れ九州へと逃げ落ちていきます。西国の有力御家人の協力を得た尊氏は再び京へと軍勢を進めていきます。

 この時、後醍醐天皇方の勢力を抑える為に他の足利一門と九州に残った一色氏二代目「一色頼行」とその異母弟「一色範氏」になります。九州に残った足利軍の大将格だった仁木義長が京都に呼び戻されると一色範氏が九州探題に任ぜられ、九州の制圧を任ぜられますが、延元二年(1337年)犬塚原の合戦で一色当主である頼行が討ち死、範氏が当主を継いでいます。

 そもそも、坂東を拠点としていた足利家の勢力が九州まで及んでいるはずもなく、非常に脆弱な勢力基盤出会った為、九州制圧は非常に厳しい状況が続き、さらに中央では中央では「観応の擾乱」と呼ばれる足利尊氏・高師直vs足利直義という図式の内部紛争が勃発し、幕府側の増援も見込めず、九州での立場がさらに悪化し、ついに悪くなっていきます。そして、文和四年/正平十年(1355年)九州を放棄し長門に逃れていきます。

 通常で行くと、ここまで失敗してしまうと、幕府内でも閑職に回されると思うのですが、やはりここは一門の強みとこれまでの功績のなせる業なのか、範氏の次男「範光」が若狭国守護に任ぜられてまた表舞台に戻ってきます。さらに四職にも任ぜられます。

四職とは何?

室町幕府の軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官に交代で任じられた守護大名の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の4氏を指して「四職」と称する。

出典”Wikipedia”

 室町幕府の組織では三管領と呼ばれる”細川氏、斯波氏、畠山氏”に加えて、七頭と呼ぶ有力守護大名七家”一色氏・山名氏・土岐氏・赤松氏・京極氏・伊勢氏・上杉氏”の十氏が幕政に参画していました。七頭のうち、上杉氏は関東管領、伊勢氏は政所執事を世襲していきます。そして、四職の四氏に加えて、土岐氏、今川氏も侍所長官に任ぜられる事があり、四職に二氏を加え六家と呼ばれることもあるそうです。

 若狭国の守護に任ぜられたのですが、若狭国最大の都市である小浜を中心とする今富名と呼ばれる地域が山名氏が南朝から北朝に帰参させるために与えられており、守護でありながらほとんど収める土地がないという非常に苦しい領国経営だったと言われています。さらには国人一揆まで勃発しれしまいますが、なんとか国人一揆を破り、反乱勢力を一掃しましたが、今富名を含めた若狭全土を治めるには、1391年に起こった明徳の乱を待たなくてはなりませんでした。

 山名氏が起こした反乱である明徳の乱では一色氏は幕府側について参戦します。時の一色家の当主は範光の息子である「詮範」です。反乱を鎮圧後の1392年に行われた論功行賞で今富名の帰属が山名氏から一色氏に移り、一色氏は守護としてようやく若狭国全土を治めることになります。さらに、詮範の息子である「満範」が、一色氏の長年の基盤となる丹後国の守護に任ぜられます。

 時は少々遡り、詮範は1388年に三河守護、1391年には尾張知多分郡守護に相次いで任ぜられています。一色氏の故郷である三河国を治めるってどんな気分だったんでしょうね。

 この頃が一色氏の最盛期だった感じがします。

 三河地方、尾張国の知多半島、海東郡(現在の津島を中心とした地域)を統治下におくという事は、一大物流、経済拠点となっていた伊勢湾・三河湾の交易を手中に収めるという事になります。
 伊勢国の守護にも後に任ぜられる事から、守護となる前から、伊勢半島を中心とした伊勢地方が一色氏の勢力下に入っていたのではないでしょうか。

 海東郡には、尾張国屈指の商業都市である津島が存在しています。後に織田信秀、信長が津島を掌握して力をつけ尾張国を統一していきます。鎌倉を中心とした東国と京の都をつなぐ東海道という陸路の物流と、伊勢湾・三河湾の海路の物流の両方を掌握できるのが地図からでも解っていただけると思います。

 都に近い丹後、若狭の守護として、また四職として幕政に参画の為都に常駐し、三河、知多半島、海東郡を支配して莫大な力を蓄えていく一色詮範、満範の時代が一色氏絶頂期かなと思います。

 その後、1406年に詮範、1409年に満範が相次いで亡くなり、満範の息子「義貫」の代になると早くも一色家の力に陰りが見えてきます。一色家中の争いが起き、義貫は謀殺、宗家は義貫の弟、「持信」の息子「教親」が継ぎます。さらに、教親が嗣子がいないまま亡くなったため、義貫の子「義直」が継ぎます。

 このあたりの内紛は、足利将軍家との繋がりも原因の一つとなっていて、当時の将軍は六代将軍で籤引き将軍として有名な「足利義教」です。将軍と対立していたのが義貫であり、将軍の寵臣であったのが義直になります。将軍家から見たら気に入らない当主を排除(謀殺)して、お気に入りの者を当主に据えようとしたと思うのですが、わずか11年、33歳で急死してしまい、結局先代の当主の息子が継ぐという一家の勢力が削がれるだけの内紛劇だろうと思います。

 義直以降の一色氏は勢力を回復することなく、丹後守護のみのまま戦国時代に突入してしまいます。織田信長の丹後攻めの後、和睦するが、本能寺の変後、明智方に与したため、最後は豊臣秀吉方の細川藤孝に攻め落とされ、一色宗家(丹後守護一色家)は滅亡してしまいます。


 丹後国守護の一色家としては、コーエーテクモゲームスから発売されている「信長の野望」シリーズに登場します。シナリオによって、丹後、若狭両国を領有している時と、丹後国のみの時とあり、どちらとも何故か弓木城を本城としている大名と描かれている事が多いですね。

 信長の野望、全国版、戦国群雄伝、武将風雲録などはプレイしてましたが、最新作を見ると、もう・・・何が何だか・・・。すごくリアルになっていますし、今まで以上に選んだ大名に感情移入ができるかもしれませんね。

 いまだに(2018年3月時点)自分は見たことがないニンテンドーswitch版も出ているんですね。どこでも気軽に信長の野望・・・はちょい厳しいかなw

発祥の地訪問記

 一色氏発祥之地は、一色町の商店街が連なる愛知県道12号豊田一色線の一色本町交差点から細い路地を入った所に鎮座する安休寺の境内脇にあります。

安休寺脇にある一色氏発祥之地の石碑と案内板。
この石碑が設置されている場所は、今は広場というか駐車場みたいになっていますが、元々は何があったんでしょうか。

石碑横に設置された案内板。長々と上記に書いたことが簡潔に纏められています。

そして、石碑が脇に置かれている浄土真宗、真宗大谷派”南潮山”安休寺の山門です。
神社ばかり参拝しているせいなのか、非常に重厚な山門に感じます。

この安休寺を建立したのが吉良有義と言い、吉良満義の次男として生まれ、以前紹介した赤羽根古城に居住していたと伝えれています。そして、延文元年(1356年)父吉良満義が死去し、菩提を弔うため、翌年の延文二年(1357年)に安休寺を創建したといいます。

赤羽根古城(西尾市一色町赤羽)

この吉良有義ですが、赤羽根古城を中心とした一色荘を拠点とした為、一色有義とも呼ばれています。上記で述べている丹後守護一色家は早い段階から一色荘から離れてしまっており、吉良家が治めていたそうです。

安休寺の本堂になります。非常に大きな本堂ですね。比べる対象が神社の拝殿になってしまうので、必然的に大きいと感じてしまいますね。


安休寺から再び石碑が立っている広場に戻ってきました。
一か所だけ、笹の生えた盛土に木々が生えています。木々の足元には祠が一基。

祠の前に笹に隠れてしまっていた石碑が一基。”秋葉社”と彫られています。

まさかこんな所で秋葉社に出会えるとは。


訪問を終えて

改めて一色家の歴史を順に追っていくと、室町幕府黎明期を支えた一族なんだなと実感します。鎌倉幕府討幕から建武の新政、南北朝時代というのは非常に理解しにくい時代ですが、愛知県(特に三河地方)は足利家の拠点だった事もあり、この動乱の時期に活躍した武将一族を輩出し、非常に密接に関わっていきます。

今後、岡崎市、西尾市が発祥の地とされる足利分家のゆかりの地を訪ねていきたいなと思っています。岡崎市なら”細川氏”・”仁木氏”、西尾市なら”吉良氏”・”今川氏”の発祥の地を訪ねていきたいと思います。

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