名所旧跡など

走り付けの戦い

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺部城の紹介の時にも触れていますが、全国的な徳川家康の年表?にはほぼ100%記載されていないであろう"走り付けの戦い"が寺部城の東側の海岸線沿いに行われているようです。

1560年、桶狭間の戦いの後に今川氏から独立の道を選んだ松平元康は三河統一の為に今川氏の息のかかった武将が籠る城郭を攻め落としに掛かります。

よく勘違いされがちなのが、元康が独立した時、領土は岡崎城周辺だけだと思われがちなんですが、松平氏には三代信光、四代親忠の時に分かれて本家を支えていた十四松平と呼ばれる庶流が存在し、酒井氏、本多氏などの譜代の家臣も存在していたので、独立した時にはかなり広い領土を持っていたと思われます。そうでなければ、独立しても兵力を動員できないですからね。

で、今回紹介する走り付けの戦いなんですが、1560年に勃発したと言われています。6月に桶狭間の合戦が起きているので、独立後半年後の出来事なんですね。

走り付けの戦いに関するもう一つの言い伝えが幡豆にはあります。それが、

"かにくれ"なる言い伝えです。

この地で住んでいた六平は、暗いうちから漁に出てたくさんとれた蟹を家の前で茹でていたら、何艘もの船が岸に付き、武器をもった兵士が浜に上がってきたそうです。

それが"松平軍"だったとか。

その兵士たちは、六平が家の前で茹でていた蟹を見つけ、「わしにもかにくれ」と蟹を全部食べてしまったそう。そんな話からこのあたりを「かにくれ」を呼ぶようになったんだとか。

案内板の「かにくれ」の英語表記が・・Give me a crab!になっています・・英語になると情緒が感じられませんなあ・・。

船で乗り付けてきたという事で、たぶん形原松平氏、竹谷松平氏辺りの部隊が乗り込んできたんだと思います。

おおよその元康が独立した頃の勢力圏が上記の図になります。

赤色が松平側、青色が今川側になります。

現在の蒲郡から幸田町に抜ける街道はご覧の通り、深溝松平、竹谷松平によって抑えられており、今川氏の軍勢は海岸線沿いからは容易に岡崎方面に攻め込むことができない布陣となっています。


元康としても、西三河統一の最大の障害は吉良氏になる訳で、対吉良戦線の本格前に海沿いに領する小笠原氏の従属化が必須なのは配置からもわかりますね。

元康としても、比較的楽に小笠原氏を屈服させることができると思っていたんでしょう。それが兵士にも伝播してしまっていたということでしょうか・・。いくら早朝とはいえ、戦前の足軽達が浜で茹でられている蟹を見付けて我先に食べてしまっている状況は、軍隊の規律が緩んでいる証拠だと思わずにはいられません。

1560年当時、九州地方では実践投入済みの兵器とはいえ、まだ三河地方ではでも火縄銃はとても珍しい物だったと想像できます。そんな珍しく高価な火縄銃を何丁も小笠原氏が本当に所有したのかはともかくとして、いきなり発砲したらどうなるでしょうか。

ただでさえ"かにくれ"状態で楽勝ムード漂っている松平軍だったります。さて寺部城を攻めましょうかねと進軍したとたん、前方の山間から火縄銃の銃声が響き渡る訳です。「なんじゃこの音は!」とびくつき、驚いて進軍が止まってしまったんでしょうね。結局、松平軍は撤退をすることになり、小笠原氏は戦に勝つことになります。

結局、小笠原氏は本多忠勝の説得により今川氏を離れ松平氏に従属することになります。そして長年の功労により、現在の千葉県富津市に陣屋を構え旗本として現在まで続いています。


走り付けの戦いの看板の前には東幡豆港が広がっています。

対岸?には幡豆観音が鎮座しています。ぜひ、幡豆観音に参拝の際には、海岸線を西に進んでもらい、走り付けの戦い跡を見てほしいですね。

 

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