2018年2月、まだまだ極寒の冬空の元、バイクで向かう先は、旧幡豆郡福地村長縄に鎮座する"稲荷社"である。この日は、長縄町から針曽根町を抜け、一色町の常夜燈を巡る予定だったのだ。この時は、稲荷社を参拝し、境内に据えられた常夜燈も写真を撮った上で、次なる神社へと向かっており、別段何かを感じることはなかった訳です。
その後、稲荷社の参拝記をアップする為に、愛知県神社名鑑や福地村誌を調べていると・・・なにやら稲荷社は寺津城を中心にこの地を納めていた大河内氏の庶流で長縄大河内氏が治めていた長縄城址に鎮座しており、元々は長縄城の鎮守の神として祀られていて、廃城後地元の人たちに産土神として大切に祀られてきたんだそう。
大河内氏とは、寺津城を中心に巨海城、長縄城を有し、吉良家の中でもかなり有力な武将の一族だったことがうかがえます。吉良氏滅亡後は徳川家康に仕え、明治維新の時までその名を残しています。
そして、稲荷社の由緒にでてくる大河内小見という人物が歴史の繋がりの中に誘う事に・・・。この大河内小見なる人物、大河内氏の家系図や歴史書などにはその名を見ることはありません。しかし、この長縄に住む大河内氏の末裔の方々に口伝の様な形で大河内小見という名前が現代にも伝わってきているんだとか。
長縄城跡から南に100mに"泰平山 観音寺"が鎮座しています。この観音寺、詳しい由緒はわかっていませんが、貞観年中(1362-1367年)の創建と伝えられています。
この観音寺の境内の脇から寛政七年(1795年)に清康公と彫られた五輪塔が発掘されたそうです。この発掘当時、この長縄は松平伊豆守系大河内松平氏7代「松平信明」の時代であり、信明自身が幕府要職の老中の立場にいました。そんな老中領内で神君家康公があこがれていたと言われる"松平清康"公の名前の彫られた五輪塔が出てくるんですから、信明公自身は老中としてほぼ江戸に居たはずなので、江戸までこの話は伝わり、幕府内でもかなりな出来事になっていたんではないでしょうか。
この五輪塔が見つかった場所は現在では"松平清康公仮葬地"の碑が建っています。この松平清康仮葬地について、前述しましたが、口伝が残っています。
「わが先祖に大河内喜平小見という者がおり、松平清康公に仕えていたたという。当家の言い伝えによれば、喜平は、清康公がなくなった時、森山の陣中から、御遺骸をひそかに奉持し来り、同村の観音院に仮に奉納した。」
天文四年(1535年)松平清康が尾張の織田信秀を攻め込み、森山城攻城の際の陣中で家臣"阿部正豊"に殺されてしまった所謂"森山崩れ"と呼ばれる事件の時のことになります。通説では松平軍は直ちに撤退を開始し、織田軍の追撃もありましたが、岡崎城近くの丸山で清康公の遺体を荼毘に付し門前町に埋葬したと言われています。
が、この口伝では大河内喜平小見が単独なのか配下数奇で動いたのかは定かではないですが、長縄の地で埋葬したとされています。
この辺りはこちらの記事をご覧ください。
観音寺にはもう一件、大河内小見に纏わる物が境内に据えられています。
吉良町駮馬から移設された"兵道塚と徳玄塚"と呼ばれる自然石の塚になります。
徳川家康と吉良義昭との東条城を巡る戦いの中、吉良方として参戦した"大河内小見"と富永伴五郎の弟”徳玄”を祀った塚と言い伝えられています。どちらの塚が兵頭塚か玄徳塚なのかはわからないのですが、大河内氏も参戦していた証になりますね。
観音寺は"西条吉良三十四観音"の十九番札所になっています。西条吉良氏ゆかりの地(矢作川より以西)には西条吉良観音霊場が、東条吉良氏ゆかりの地(矢作川より以東)には東条吉良観音霊場がそれぞれ開設されています。
長縄町の稲荷社を参拝した事で"大河内小見"なる人物に出会う事が出来ました。そして彼を通じて出会った歴史を追っていこうすると、すでに歴史の分岐点が登場してきます。
Route1
長縄城"大河内氏"の本拠である寺津城址、寺津を訪ねる。
Route2
松平清康の所縁の地(森山崩れの地、墓所、火葬の地)など。
Route3
大河内小見が戦死した言われる"藤波畷の戦い"を通じて東条吉良氏所縁の地へ。
さて、あなたならどのルートを選びますか?