第二章:松平家初代「松平親氏」

菅沼定直帰順の事

 三州菅沼に菅沼信濃守定直という者あり。此定直此地に住ぬる子細いかにといふに、正長元年戊申南方に小倉殿と申おはしけり。此小倉殿御謀叛あり。伊勢国司北畠中将満雅を頼み、旗を拳給ふ。そのとき三州の住人菅沼信濃守俊治も、将軍義教公を恨ることありて、小倉殿の御味方にまいる。然るに程なく満雅うたれしかば、小倉殿は力を失い、足利家と和睦して帰洛し給へば、俊治も三州に引き返す。
 されども俊治いつまでかくてあるべきと、国人をかり催し、旗をあげんとす。この事京へ聞えければ、永享六年甲寅の二月、将軍家より討手とし、土岐大善太夫持頼・同孫太郎頼房・其弟新二郎光貞・同新三郎定直をはせ下らしむ。新三郎定直搦手より攻入て奮戦し、俊治が首切て京に献ず。将軍御感浅からず、軍功の賞として俊治が三州の所領、悉く定直に下される。
 定直これより土岐を改て、菅沼信濃守とは称せしなり。然るに今度親氏・泰親両君、大勢にて俄に攻寄、息をもつかせずせめ給へば、定直も防戦かなはず、弓をはずし兜をぬいで降参し、菅沼長く御旗下に属し、定直が七代の孫、織部正定盈に至り、神君御代、大に武功を顕はし、忠臣の名を後の世に残したり。

 かくて親氏公は国中大略せめしたがへ、応仁元年丁亥四月廿日松平村にて逝去あり。同所高月院に葬り、芳樹院殿俊山徳翁大禅定門と贈り申しける。信州の林藤助光政も、追々親氏君御威風盛なりと聞て大いに悦び、康生二年五月より三州に来り、永く御家人とぞなりき。

 親氏君御卒去、家忠日記には康正二年とし、其外文安二年、または文明九年頃の説もありて一定せず。近頃享和二年壬戊二月、武州多摩府中時宗称名寺竹林の中より掘り出したる碑、「世良田氏徳阿弥親氏、応永十四年廿日とあり、官より令し、其他に籲を結廻し、樵采を禁ず。其子細は詳ならずといえども、附して参考に備ふ。

改訂三河後風土記(上)より

 なぜここで菅沼氏が登場してくるのかはよく解らないのですが、菅沼氏は松平郷からは東に位置する現在の新城市作手菅沼周辺とする管沼郷を所領としていた一族で、親氏の代からの譜代家臣だったのかといわれると、今一つ疑問が残ります。東三河の小国主は松平、今川、武田などの勢力争いの中でどちらかといえば勝ち馬に乗るという戦略で生き延びてきた感じなので、菅沼一門の大半が武田方に与するなか定盈だけが徳川方に与したから江戸時代になり大名となっていくわけですが、菅沼一門が徳川家に変わらぬ忠誠を尽くしていたかと言われると・・・・って感じです。

 康生二年(1456年)五月に信濃国の小笠原藤助(林光政)が松平郷を訪れます。時宗の僧侶として関東から信濃経由で三河に流れていく途中の年の瀬である十二月二十九日に小笠原藤助の館を尋ね、正月に藤助が射止めた兎を使った汁物を振舞ったという伝承があると前章紹介していますが、小笠原藤助は言わば小笠原氏を出奔して三河国の松平親氏の元に向かったという事になります。小笠原藤助は、小笠原清宗の次男として林城の城代を務めていたはずなのですが・・・。

林家系図

 松平家家臣団の中でも古参の家臣を「岩津譜代」と呼ぶことがあります。親氏を尋ねて三河国松平郷を訪れた小笠原藤助は林光政と改称し親氏に仕えたといい、酒井広親に次いで親氏の家臣団に名を連ねたと思われます。
 「寛政重脩諸家譜 第二百十四巻」に林光政から繋がるとする林家の系図が載っています。
 これによると、「小笠原信濃守清宗が二男中務少輔光政、有親君、親氏君と交わりを厚くす。のちに故あり信濃国林ノ郷に潜居している時に有親公、親氏公が光政の邸宅を訪ね御越年した時、もてなす食材が無いとして光政自ら狩りに出かけ兎を一羽獲り、正月元日にこれを吸い物としてふるまった。この時親氏君は姓を林に改称させ、三河国へ御供して仕え、侍頭となった。」と記しています。

小笠原清宗 ┳ 長朝(小笠原家)
      ┗ 光政 ━ 光友 ━ 忠長 ━ 忠満 ━ 忠時 ━ 忠政

光政の兄「小笠原長朝」の生年は嘉吉三年(1443年)であるしています。光政の生年は不明ながら兄弟である事を考慮すれば1455~56年の頃の生まれではないでしょうか。すると・・・一体何歳の時に有親、親氏に兎の吸い物を振舞ったのでしょうか・・・そして10歳で松平郷を訪ねてきたということに・・・。

 文正年中に領地拡大に向けて動き始めたとしている松平親氏は翌年の応仁元年(1468年)四月二十日に死去したとしています。しかし康正二年(1456年)とし、其外文安二年(1445年)、または文明九年(1477年)に死去したという説もあると紹介して改正三河後風土記の親氏の段は終了しています。

 松平親氏が没した年について、非常に多くの伝承があり、じつに1360年から1467年という約100年間という差が生じています。実在を疑われている事もある松平親氏ですが、没したとする年と松平氏に関係する事の発生した年を一覧表にまとめてみる事で、いつ頃親氏が松平郷にやってきて、いつ没したのかが見えてくるかもしれません。

延文五年
十月十五日
1360年
11月24日
在原信盛:死去
親氏義祖父
在原氏墓地
康安元年
四月二十日
1361年
5月24日
親氏:死去総持寺松平家牌名
法蔵寺由緒
大樹寺記録
奥平家記録
応安元年1368年親氏:松平郷入郷高月院由緒
永和三年1377年親氏:六所神社勧請六所神社社伝
明徳三年
二月十八日
1392年
3月12日
在原信重:死去
親氏義父
在原氏墓地
明徳四年1393年親氏:死去豊田市松平伝承
応永年間1394~
1424年
親氏:松平城築城現地案内板
応永元年
四月二十日
1394年
5月20日
親氏:死去三河海東記
応永元年
四月二十四日
1394年
5月24日
親氏:死去高月院記
応永二十年1413年親氏:死去信光明寺縁起
応永二十一年1414年親氏:死去松平総系譜
応永二十八年1421年親氏:死去参陽松平御伝記
応永三十三年
三月三十一日
1426年
5月8日?
水女:死去
親氏室
在原氏墓地
応永三十三年
十二月十三日
1427年
1月10日
泰親:若一神社建立若一神社棟札
応永三十五年1428年親氏:死去東栄鑑
永享二年
九月二十三日
1430年
10月10日
泰親:死去新田松平家譜
永享七年1435年泰親:死去東栄鑑
永享八年1436年泰親:死去三河海東記
永享九年1437年親氏:死去滝村萬松寺系図
梁山妙昌寺位牌
永享九年1437年泰親:死去信光明寺縁起
永享十二年1440年信光:万松寺建立万松寺由緒
嘉吉元年1441年有親・親氏三河入国称名寺寺伝
文安五年1448年泰親:死去総持寺松平家牌名
滝村萬松寺系図
宝徳三年1451年信光:信光明寺建立信光明寺由緒
享徳元年1452年有親:死去称名寺寺伝
康正二年1456年親氏:死去大三河志
康正二年
五月
1456年林光政:三河国来訪改正三河後風土記
寛政六年1465年額田郡一揆今川記
応仁元年
四月二十日
1467年
5月23日
親氏:死去改正三河後風土記
徳川歴代記
文明四年1472年泰親:死去大三河志
徳川歴代記

 少し見にくいですが、親氏が没した年を年代別に並べてみました。その間に、松平郷などに伝わる親氏に関連しそうなものの年も併せて年表にしてみました。

 松平信光が親氏・泰親の菩提を弔うために建立したとも言われている信光明寺を創建した後に、親氏・泰親が死去したという説が改正三河後風土記を含めて何例か存在する点です。特にこの中で興味深いと思う伝承が、三河国に入り逗留していたという時宗寺院「称名寺」の寺伝になります。これによると、親氏とその父有親が徳阿弥、長阿弥と時宗の僧侶となり行脚の中で三河国入国し称名寺に入山したと伝えられているのが嘉吉元年(1441年)としています。もう、これでもかというほど、ずば抜けて三河国入国が遅い伝承です。伝承と史料との間でこれだけ乖離している松平親氏は実は存在しない想像の人物であると言われてしまうのも何となく納得してしまいます。