白鳥山法持寺(名古屋市熱田区白鳥) 大名古屋八十八 五十六番札所

 日本神話で登場する「日本武尊」にあこがれていたという真言宗開祖である「空海」が自ら仏像を刻み草庵を結んだというのが起源であるという「白鳥山法持寺」の紹介となります。

寺院情報

寺院名白鳥山法持寺
所在地名古屋市熱田区白鳥一丁目二番二七号
御本尊釈迦牟尼仏
宗 派曹洞宗
創 建天長年間(824-834年)
札 所大名古屋八十八 五十六番札所
御朱印
H P

参拝日:2020年2月5日

由緒・沿革

 熱田神宮の西北西に位置する場所に、熱田神宮の社伝では「日本武尊」の御陵であるとする「白鳥古墳/紹介記事」があります。これは白鳥伝説によるものなんですが、熱田神宮の御神体でもある「草薙剣」は日本武尊所縁の剣であるので、熱田神宮の近くに日本武尊の御陵とする古墳があってもさもありなんって感じで違和感はあまり感じないですね。

白鳥伝説

 日本武尊が「能褒野(現:三重県亀山市)」で亡くなり葬られると、白鳥に姿を変えた日本武尊が天高く舞い上がったという伝説で、この白鳥が舞い降りたとされる場所には、日本武尊を祀った神社や、ここ白鳥古墳と同じように、日本武尊の御陵が設けられています。日本武尊を祭神とする神社は「白鳥神社」としている事が多いですね。

 江戸時代、この「白鳥古墳」の維持管理を行ってきたのが「白鳥山法持寺」になります。山号を見ても、白鳥古墳と関係がある事がわかります。

 宝持寺は天長年間(824-834年)に空海によって開創されたと伝わっています。空海は天長年間以前にも熱田神宮に訪れているようですね。伝説級僧侶として名高い「空海」があこがれたという日本神話最大といってもいい英雄である「日本武尊」。自ら延命地蔵菩薩を刻み、白鳥御陵の鎮守とその副葬品などを護る寺院という事で、最初は「宝持寺」という寺号で開創されたようです。

 宝徳年中(1449-1452年)、「秋葉山圓通寺/web」二世「明谷義光和尚」により中興開山され「曹洞宗」に改宗し、熱田神宮の大宮司家である「千秋家」の菩提寺にもなっていたようです。因みに、現在でも熱田神宮の権宮司として千秋季頼氏がいらっしゃいます。そして、承応年中(1652-1655年)に現在の寺号に改称しています。

名古屋名所図会 宝持寺

 宝暦七年(1757年)の大火で伽藍すべてを焼失してしまったが、その後まるで城郭を思い浮かべるような石垣と七堂伽藍を有した寺院として復興されます。
 上記の名古屋名所図会の挿絵を見ていると、江戸時代には白鳥古墳の南側に法持寺があった事がわかります。戦後復興政策の中で、法持寺の境内には「名古屋市立宮中学校」が建設され、法持寺は白鳥古墳の東側に移転しています。この時白鳥古墳の東側を掘削しているようですね。

 江戸時代が終わり明治時代になると、それまで法持寺が行ってきた「白鳥古墳」の管理が「熱田神宮」に移されます。この動きは、神仏分離策によるものです。さらに第二次世界大戦後の白鳥古墳の管理は「名古屋市」に移管されています。

 昭和三十二年(1957年)から30年間、大相撲名古屋場所の際の「三保ヶ関部屋」の宿舎として使用されていました。当時三保ヶ関部屋所属だった大関が「北の海」が場所後横綱に昇進が決まった事でも有名です。現在、当時の土俵址の碑と北の海所縁の石碑などが据えられています。

法持寺は白鳥山と号す。南区熱田白鳥町に在り。境内は二千二百七十四坪一合有り。常恒曾地特級にして、神宮坂町圓通寺の末寺なり。天長中、空海の創建と傳ふ、後明谷義光之を再興す。千秋家代々の菩提所たりき、元和中、火災に罹り、住僧大祥慶呑之を中興す。初め宝持寺と号せしを承応中、今の寺号に改む、寛延四年四月、大鐘を改鋳し、六年七月鐘楼を建つ。宝暦七年、火災に罹りて殿堂、寺家残らず焼失し、後再建せらる。・・・t(中略)・・・本尊は木造地蔵菩薩坐像なり。元境内に薬師堂(本尊薬師如来坐像は三河国鳳来寺の薬師と同木にて修利仙人の作と傳ふ。)、白鳥神社等ありき。
 塔頭は耕雲院、月笑軒、洗月院、三笑軒、一雲院、梅蒡院、東陽軒、太虚院、高岩院、無翁院の十所ありしが、月笑軒、洗月院、梅蒡院の三院を除く外、今皆廃絶し、除いた三院も亦末寺となる。他末寺は二十カ寺あり。

大正四年発刊「名古屋市史」より

名古屋二十一大師霊場を行くー寄り道遍ー

 熱田神宮の近くには以外にも寺院が数多く存在しています。古くは空海や最澄など遣唐使が派遣されていた頃の教科書にも出ている様な僧侶も数多く熱田神宮を参拝というか参篭して祈祷を行っていたりします。当然神仏習合の時代ですので、熱田神宮内には法華堂、護摩堂、神宮寺などが建てられ、数多くの仏像なども奉安されていたといいます。そんな熱田神宮の周囲には、熱田神宮寺の塔頭、末寺の流れを汲む寺院や先ほど紹介したように熱田神宮に参篭している上人が建立したという寺院がまるで熱田神宮を取り囲むように建っています。
 名古屋大師十三番札所「花林山弥勒院/紹介記事」の納経を終え、弥勒院の北西にある「白鳥古墳」の東隣に立っている「白鳥山法持寺」を参拝していきます。こちら宝持寺は、「大名古屋八十八ヶ所/紹介記事」という弘法大師霊場の五十六番札所に選定されている寺院になります。

 山門前には、何やら見かけたことのある丸い金色の看板が設置されていました。「鷲津砦/紹介記事」や「丸根砦/紹介記事」でも紹介した「信長攻路/web」という桶狭間の合戦所縁の史跡に設置されている案内看板です。

参拝記

 本堂は南向きなのですが、山門は東入りとなっています。
 山門越しに見える、森の様になっている所が「白鳥古墳」になります。まさに寄り添うように法持寺が立っている事がわかりますね。

山門

本堂を始めとする伽藍の大半がコンクリート造りとなっていて、山門である仁王門もコンクリート造りとなっています。切妻造の屋根に唐破風が設けられた山門になります。

山門の脇には、太平洋戦争時の空襲によって火災の炎に撒かれたという「禁牌石」が今もなお建っています。

手水舎・水盤

山門の所でも書きましたが、殆どコンクリート造りの法持寺にあって、数少ない木像の構築物が、この手水舎になります。かなり柱が太くどっしりとした感じを受ける手水舎です。

横綱「北の海」

「うん、ほんまに横綱になったんや。母ちゃん」

 13歳で北海道から東京に旅立つことに息子を見送った母親の気持ちは想像を超える葛藤があった事は想像に難くないですね。21歳で横綱になった「北の海」は憎らしいほど強すぎると言われ、判官贔屓が好きな日本人からはいまいち人気が無かったと言われていますが、強くてなんぼの横綱なんですから、強すぎて当たり前だと思うのですけどね。

本堂

 極力木造の意匠を再現したコンクリート造りの入母屋造瓦葺平入の屋根に向拝が設けられ、本堂を囲むように高覧付きの濡れ縁がある本堂になります。

弘法堂

 境内の高台となっている場所に建てられている弘法堂になります。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

 本堂前はアスファルト敷きとなっていて、かなり広い境内駐車場となっているようです。その駐車場の片隅に弘法堂へ通じる石段が用意されています。

 石段脇に据えられた「名古屋八十八ヶ所霊場」の札所案内石柱になります。まだ法持寺を参拝した時点ではほどんと遍路していない霊場なんですが、どれだけこういった札所案内石柱が据えられえているのか探してみるのも面白いかもですね。

三保ヶ関部屋

 弘法堂への石段の向かって左側に据えられている「土俵の跡」の碑になります。法持寺と三保ヶ関部屋とのかかわりは非常に深かった様で、前述した北の海関係の石碑だったり、山門裏側にはこんな物も掲げられていました。

 大きな「すりこぎ」が掲げられています。これは三保ヶ関部屋で使っていたてっぽう用の木柱を使って作られたものなんだとか。このすりこぎには当時三保ヶ関部屋に所属していた関取のサインが書かれています。

地図で鎮座地を確認

寺院名白鳥山法持寺
所在地名古屋市熱田区白鳥一丁目二番十七号
最寄駅名古屋市営地下鉄 名城線「神宮西駅」徒歩4分

次の目的地は?

名古屋二一大師を行く

 名古屋二一大師霊場一四番札所「雲龍山喜見寺」を納経します。この喜見寺は住職が不在の事が多いという事で、今回納経した「弥勒院」にて納経印を置いて頂けます。

名古屋二一大師を行く-寄道遍-

 何度も今回の記事の中で登場した「白鳥古墳/紹介記事」を訪れていこうと思います。

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
最新情報をお届けします。
名古屋市熱田区 大名古屋八十八
シェアする
成瀬晃をフォローする
あいちを巡る生活って

コメント

タイトルとURLをコピーしました