南知多観音霊場 知多郡南知多町

臨海山 慈光寺(知多郡南知多町内海) 南知多観音霊場 二十九番札所

2019年3月4日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名 臨海山 慈光寺
所在地 愛知県知多郡南知多町南側六十三番地
御本尊 阿弥陀如来
宗 派 西山浄土宗
創 建 天文八年(1539年)
札 所 南知多観音霊場 二十九番札所
法然上人知多霊場 九番札所
知多百観音霊場 六十一番札所
御朱印
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参拝日:2018年10月3日

知多新四国霊場公式ホームページのご紹介


http://chita88.jp/

沿革・由緒

天文八年(1539年)恵空上人により開創され、十四世安空義静上人により中興されました。 本堂に合祀される秘仏、大日如来像は十二年に一度開帳されています。

この慈光寺は、江戸時代から明治期にかけて内海を代表する船主である内田佐七家の菩提寺でもあります。

南知多観音霊場を行く


管理人が行く知多四国霊場巡礼の旅

参拝記

知多四国霊場四十五番札所「尾風山 泉蔵院」とは地続きとなっていて、泉蔵院を後にしようと思った時、ふと慈光院の看板が目に入りふら~っと訪れることに。

「本四国巡拝初願者、衛門三郎ゆかりの杖杉弘法大師」なんて書かれていたら、あれ?こっちにも弘法大師が祀られているのかと思って寄ってしまいますよね。衛門三郎・・・・知多四国霊場になんらか関係する人物なのかな?と思って調べてみたら、知多四国霊場とは関係なくまさに本四国巡礼で大師伝説の一つに関ってくる人物であり、まさに四国巡礼の元祖ともいうべき人物で本四国を巡礼していると必ず耳にする名前だとか。

そんな衛門三郎ゆかりの杖杉弘法大師が何故にこの慈光寺に安置されているのかは分からないのですが、弘法大師の札所になっていない寺院にも弘法大師像が安置しているという点から見ても、知多半島は大師信仰が篤い場所なんじゃないのかなと思われます。

衛門三郎伝説
天長年間(824-834年)の頃のお話です。現在の愛媛県浮穴郡荏原村に住んでいた豪農(一説には河野一族)衛門三郎という者がいた。三郎は非常に強欲で人望も薄かったと言われています。ある時、托鉢にきた弘法大師の鉄鉢を地面にたたきつけ鉢が八つに割れてしまった。三郎には八人の子供がいたが、その年から一人ずつ亡くなり、八面目には子供全員が死亡してしまった。その後枕元に弘法大師が立ち、八年前に托鉢に訪れたのが弘法大師と知ることになります。
反省した三郎は八十八ヶ所巡礼に出かけたが中々大師に遭う事ができず、21巡目に逆参りをする事に。しかし、三郎焼山寺の近くの杖杉庵で病に倒れてしまいます。死期が迫る中、大師に会い許された。望みはあるかとの問いに「伊予城主河野一族の世嗣に生まれることを願う」と大師は小石に「衛門三郎再来」と書いて臨終前三郎の左手に握らせた。天長八年十月三十日のことである。三郎の杖を大師が墓標に立てると,その杖から芽が出て杖杉と呼ばれる大杉となった。60年後,道後湯築城主河野息利に息方という男子が生まれたが,この子は三郎の生まれかわりで左手に「衛門三郎再来」と書かれた小石を持っていた。

実は、四国霊場を巡っている時に使用する「納札」も実は衛門三郎が始めたものだと言われています。弘法大師を追って四国巡礼をしていた時、自分の事をわかってもらうために名前を書いたお札を納めていたのが始まりと言われているんだとか。

参道入口

慈光寺参道入口脇に据えられている「四国巡拝初願者、衛門三郎由来杖杉弘法大師札所 慈光寺」と彫られた石柱になります。知多四国霊場が創設された250年以上前から杖杉大師が安置されているのなら、知多四国霊場の札所や番外札所に選ばれていると思うので、この慈光寺に大師像が据えられたのはそれ以降なんだろうなあと思うのですが。

山門

石段を登っていくと、鐘楼門の山門が建っています。

泉蔵院の紹介記事でも書かせて頂きましたが、泉蔵院は海にせり出した山裾に築かれた一色城の鎮守社として当地に移設されたと言われています。慈光寺が建立された頃には一色氏は知多半島を去っており、一色城は廃城となっていたと思われます。泉蔵院のすぐ隣に建っている慈光寺も当然元々は一色城の縄張り内だと思われるので・・・。
そしてこの慈光寺の山門は一色城の大手門を移築された物だと言われています。重層の大手門を作るあたり、一色氏の繁栄ぶりがわかります。

手水舎・水盤

瓦葺木造四本柱タイプの手水舎になります。
水盤には山号である「臨海山」と彫られています。手水舎の傍らにはお墓参りの時に使用される手桶が用意されていますね。

本堂

寄棟造瓦葺妻入りの向拝の設けられた本堂になります。
正直な所、寄棟造で妻入りの本堂は非常に少数派ではないかと思います。実際・・当サイトを開設して初めての様式だと思ったのですが。
中央には本尊である阿弥陀如来が安置され、左側には南知多観音霊場の札所本尊である馬頭観音と十二年毎の御開帳となる秘仏である大日如来が安置されています。

また、境内には、安政年間(1854-1860年)に内田家の沖船頭だった豊吉(後に、内田佐七家新家の初代佐造)が、子どもの安産を願って隠岐の著名な地蔵を分祀して持ち帰ったといわれる「あごなし地蔵」があり、お参りすると歯痛が治るといわれているそうなのですが、今回参拝した時には、気づかなくて参拝していませんでした。
平成31年・・五月からは新元号の内に参拝する予定ですので、追記という形で報告させて頂きます。

御朱印

参拝を終えて

慈光寺近くに「内海佐七家」があるのですが、今回の知多四国霊場の巡礼中には時間がなく訪れることができませんでした。次回、内海地区を訪れる際は、じっくりと内海周辺の歴史的スポットを巡ってみたいと思います。

次の目的地は

慈光寺を後にして、知多四国霊場四十四番札所「菅生山 大宝寺」を目指します。

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