城郭情報
城名 | 上和田城 |
所在地 | 愛知県岡崎市上和田町南屋敷 |
築城年 | 南北朝時代 |
築城主 | 宇都宮泰藤? |
城形式 | 平城 |
遺構 | 無 |
規模 | 八町四方(900m四方) |
備考 |
訪問日:2021年1月9日
沿革・詳細
鎌倉時代末期、後醍醐天皇の鎌倉幕討幕の勅令を受けた「新田義貞」は上野国にて挙兵します。この義貞の挙兵に従った武将の中に、下野国を本貫とする宇都宮氏一門の宇都宮(武茂)泰藤がいました。泰藤は義貞に従い鎌倉占拠→鎌倉幕府討幕、その後の後醍醐天皇の建武の新政などで一貫して後醍醐天皇側として戦っていきます。足利尊氏が後醍醐天皇から離反し北朝を起こすと、南朝方として足利軍との主力軍として交戦しますが、徐々に消耗し、越前国を拠点に勢力の再興を図っていきます。そんな最中の延元三年/建武五年(1338年)、越前国藤島の戦いで主君である新田義貞が討ち死にします。新田軍は義貞の弟である「脇屋義助」が引き継ぎますが勢力の減衰は避けられない状況となり、越前国での再興を諦め、当時南朝方の拠点となっていたという四国伊予国に向けて越前を離れています。
ここまでが歴史資料に宇都宮泰藤の名を確認できるそうです。しかしそれ以降その名を確認する事ができず、脇屋義助に従い伊予国に移ったと見る意見が多数な様です。しかし、「本寿山妙国寺/紹介記事」に残る寺伝によると、「延元三年/建武五年(1338年)に京都に晒し首(獄門)となっていた新田義貞の首をひそかに持ち出し、義貞の故郷である上州に届ける際、妻子が住む三河国碧海郡和田荘に立ち寄り暇をつげた。」とあります。この事から宇都宮泰藤は新田義貞と共に越前国に入る以前から上和田の地に所領を持っていた可能性があります。他方では、越前国を脱出した際、尾張国にて脇屋義助を解れ、三河国碧海郡和田荘に流れ着き、住み着いたという伝承も残っていますが、三河国は足利家の軍事・経済の本拠地と言っても過言ではなかった場所であり、細川氏、仁木氏、吉良氏など室町幕府での中枢を担う足利一門の本貫地がひしめいていた場所になります。こんな場所にいきなり今まで足利方と戦っていた宇都宮泰藤が流れ着いて居城を作る事ができるのでしょうか。
実は、宇都宮泰藤の叔父「宇都宮貞泰」が三河守に任官されている事から、この頃に貞泰の甥にあたる「宇都宮泰藤」は地頭職の様な形で三河国に所領を有し、碧海郡和田荘に築城した「上和田城」を拠点としていたのではないでしょうか。南北朝時代に入り、宇都宮泰藤は一貫して後醍醐天皇方についていますが、宇都宮宗家などは基本足利尊氏方についています。さらに、宇都宮泰藤の正室は土岐氏出身であると言われており、美濃を本貫とする土岐氏も南北朝時代では足利尊氏方として従軍しています。そんな状況から考察すると、宇都宮泰藤は上和田城に潜伏するような形で戻ったとすれば、周囲の足利一門からは攻められる事はないかと思いますので、上和田城に帰還した可能性もありそうです。
上和田城に戻った「宇都宮泰藤」は義父「土岐頼直」が深く信仰していた法華宗に帰依し、法華宗の本寿山妙国寺を頼直が城主を勤めていた里見城下から移築し、頼直は剃髪し和田荘に移り住みます。この頃、主君だった新田義貞を弔う為に供養塔を建立したのではないかと思います。この供養塔を隠匿する為に意図的に流布された噂が「犬神(犬頭)伝説」だったのではないでしょうか。
宇都宮泰藤の跡を継いだのが三男「宇都宮泰綱」になります。この泰綱の代の時、和田荘から南に位置する足利一門である吉良氏が和田荘を攻め、上和田城は落城し和田荘は吉良氏に接収されてしまったそうです。上和田城だった場所は老木が茂る空き地となってしまったと伝えられてます。この時、宇都宮泰綱は妙国寺に閑居する事になります。(妙国寺に不入権があったかどうかは不明ですが、寺院にいる間は捕まる事はない・・・はず?)泰綱の子「泰道」、その子「泰昌」までは妙国寺で閑居していたようです。泰昌の子「昌忠」になると、松平郷から岩津に進出してきた新興勢力である松平信光に仕える事になります。そして、松平家の威を借りてという言葉が正しいのかは不明ですが、昌忠は上和田の所領の回復に成功し、上和田城を復旧させています。
その後、松平清康が家臣の阿部正豊により切り殺されてしまう森山崩れによって松平家は急激に弱体化していく事になり、尾張の織田信秀は安祥城を攻め落とし、岡崎城へとその矛先を向ける事になります。織田信秀は松平忠倫を配下に加える事に成功し、一気に矢作川西岸までその勢力を伸ばし、矢作川と渡河した場所に東岸側の橋頭保となる上和田砦と築きます。砦主は松平忠倫であったとされています。(矢作川を渡河していた場所は現在のJR東海の東海道本線の鉄橋が掛かっているあたりだと思われます。)
安祥城を奪還する事で織田信秀の脅威は消え、今川氏による三河支配が強化されていく中、永禄三年に桶狭間の合戦で松平氏の当主である松平元康(徳川家康)が岡崎城に入城し今川氏からの独立を果たします。それから家康の関東移封まで上和田城を中心として大久保一党が居しておりその範囲は上和田だけではなく宮地、法性寺、羽根まで広がっていたと言われています。そして上和田城は関東移封に従って大久保一党も関東に移住した為、廃城となっています。
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訪問記
上和田城址は現在では岡崎と刈谷を結ぶ県道48号線、通称「岡刈線」沿いにある上和田町の公民館と説教所が建っている敷地あたりにあったとされています。伝承にある様な八町四方(900m四方)の居館跡だったとすると、上和田町、宮地町、法性寺町がすっぽりと治まってしまうほどの大きさになってしまうので、かなり誇張されてるなっていうのが正直な感想です。
上和田城址の碑がある訳ではなく、大久保氏一族業跡地の石碑が据えられています。上和田城に居城していた宇津忠茂またはその子大久保忠俊の代に大久保姓に改称したという事ですから、大久保家発祥の地という事も言える訳ですね。
大久保氏一族業跡地の石碑の左隣の石碑は「土屋長吉重治の顕彰碑」になるそうです。
永禄七年(1564年)正月11日、三河一向一揆、上和田の戦いでのことである。
一揆軍の攻勢に味方が危機と聞いた徳川家康は、単騎でその救援に向かった。しかし一揆軍の優勢は止まらず、ついに家康自身も危機的な状況になった。この時家康には二発も鉄砲の弾が命中したが、鎧が頑丈であったため助かったという。
さて、その時一揆軍の中に、土屋長吉重治という者がいた。彼は家康の姿を見ると激しく狼狽し、叫んだ。
「私は宗門に味方している!しかし、今まさに主君が危機にあるというのに、それを助けないというのは不本意というものではないか!もしこの事で地獄に落ちる事になろうと、私はそれを厭わない!」
土屋は、味方である一揆軍に攻撃を仕掛けた。突然の裏切りに一揆軍は動揺した。家康はこの機を逃さず巧みに指揮をし、ついに危機から脱出する。
土屋は味方への突撃の後、討ち死にした。
戦後、家康は石川守成に土屋の死骸を探させた。そして運ばれて来た遺体の手を取り、激しく嘆き悲しんだ。家康は上和田の地に土屋の墓を作り、彼を篤く弔ったという。
一揆に参加し敵対していながら、自分の命と引き替えるかのように主君家康の危機を救った、土屋重治についての逸話である
(徳川実紀)
何宗の説教所なのかは現地では分からなかったのですが、この場所に御堂が建っていたみたいで、石柱門も据えられていました。何時の頃からか町が管理する土地となっていたのか、公民館と説教所が併設された建物に建て替えられたみたいですね。
元々この説教所で奉安されていた地蔵菩薩なのか、上和田町の別の場所から移された地蔵菩薩なのかはよくわかりませんが、地蔵堂が設けられていました。(新田義貞の首塚の上に据えられていた首なし地蔵(現在は作り直されて首はついています。)だったという情報もあります。)
石碑が建っていた公民館の敷地から少し南西に歩いた場所には用心壕と呼ばれる和田城の堀跡があったそうです。現在では区画整理&宅地化によってその遺構も消滅してしまっていますが、民家の庭先に和田城用心壕跡の石碑が据えられています。
地図で所在地を確認
城郭名 | 上和田城 |
所在地 | 愛知県岡崎市上和田町南屋敷地内 |
最寄駅 | JR東海 東海道本線「岡崎駅」徒歩10分 |