寺院情報
寺院名 | 熊子観音堂 |
所在地 | 愛知県西尾市熊味町山畔四十一番 |
御本尊 | 聖観世音菩薩立像 |
宗 派 | 曹洞宗 |
創 建 | 不明 |
札 所 | 三河西国観音 十七番札所 西条吉良観音 二十五番札所 |
御朱印 | - |
H P | - |
参拝日:2018年10月22日
沿革・由緒
世に熊子観音と称し、三河三十三観音十七番の札所にして、幡豆郡三ヶ峰観音と共に、郡内に於いて最も著名なる観音なり。本尊は聖観世音菩薩木立像にして弘法大師の作なりと伝え傳える。この堂の由来を尋ねるに、往古この村に牧広忠あり。桑名の城主本多美濃守に仕え、本多氏の播磨姫路へ転封後も勤仕し、この時此観世音を守本尊と仰ぎたりしが、或夜霊夢に威じて重き悪難を逃れたると以て之を信ずること念深く、元和五年帰国後直ちに一宇を建立して此尊像を安置し奉れりという。
この堂は維新前まで同地久麻久神社の境内にありしが、神仏分離の際。山麓なる現在の所に移されしという。古来子安観音と称し七月十日を縁日とす。
「幡豆郡西尾町誌」より
矢作川紀行
熊味町の鎮守社「久麻久神社」の参道脇に、赤い「南無観世音菩薩」の幟がはためいていたので、参拝後に訪れてみることに。この時は由緒などは調べておらず、この観音堂が元々久麻久神社にあったことを知りませんでした。
矢作川紀行part.5
観音堂鎮座場所
参拝記
久麻久神社の参道入口から左側を望むと、赤い「南無観世音菩薩」と書かれた幟が目に入ってきます。そして道路わきをみると、熊子観音と書かれた看板もあり、参道ではない左手の道を進んでいくと観音堂があるのがわかります。
観音堂入口
道を進んでいくと、観世音菩薩と書かれた石柱と地蔵堂が目に入ってきます。石柱と地蔵堂の間に路地があり、その奥を見ると「熊子観音堂」が建っています。
石柱
正面に「観世音菩薩」と彫られ、左面に「當国拾七番札所」と彫られています。
ここでいう「當国拾七番札所」なんですが、観音堂の札所になるので、観音霊場なのがわかるかと思います。そして、當国=三河国なわけですので、三河国観音霊場になる訳で、現在では、「三河三十三観音霊場」と呼ばれる霊場が納経帳も用意して巡礼されている方も多くみえますが、この観音霊場は昭和32年に開創された霊場になります。
この三河三十三観音霊場には熊子観音の名前は出てきません。実は、この「三河三十三観音霊場」の元となった観音霊場が存在していました。それが、江戸時代の頃から続いていた「三河西国観音霊場」になります。この「三河西国観音」の十七番札所が熊子観音になります。
三河西国観音霊場が衰退しまい、ほぼ忘れられた霊場となってしまった為、昭和32年に新たに札所を選定して再興したのが三河三十三観音霊場なんだそうです。
観音堂
観音堂前には赤い南無観世音菩薩の幟が幾重にも重なりはためいています。町の中にある辻堂の様な観音堂なんですが、現在でも非常に崇敬を集めている観音堂である事がわかりますね。
観音堂の中は、外陣、内陣と仕切られていて、内陣中央に本尊である観世音菩薩像が安置されている様です。
なんでも通常は秘仏として厨子の中に安置されていて前立仏が厨子の前に建っているのですが、例祭(縁日)の日には年に一度の御開帳が行われるんだとか。
外陣の天井には数多くの提灯が奉納されていました。
震災碑
観音堂前には、昭和20年1月13日に発生した「三河地震」の記録が書かれた震災碑が建っています。
当時は太平洋戦争末期であり、情報統制が行われ詳しい災害状況がわかっていない地震です。ただ、三河地震の前年に発生した昭和東南海地震と合わせて、かなりの倒壊家屋があったと言われています。
参拝を終えて
熊子観音、建立四百年だそうで、この間に様々な事を経験した観音堂なんだと思います。そしてこれからも、この地域の方の崇敬を集め、見守っていく観音堂なんだと実感しました。