寺院紹介
寺院概要
寺院名 | 徳興山建中寺 |
所在地 | 名古屋市東区筒井一丁目七番地五十七号(GoogleMap) |
創 建 | 慶安四年 |
宗 派 | 浄土宗 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
霊 場
霊 場 | 大名古屋十二支 丑年 東海三十六不動尊霊場 第八番霊場 |
前札所 | 霊 場 | 次札所 |
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文化財
国 宝 | |
国指定 | |
県指定 | 徳川家霊廟 |
市指定 町指定 村指定 | 本堂、源正公廟、開山堂、経蔵、鐘楼、三門、御成門、総門 |
参拝情報
御朱印 | 〇 |
URL | http://www.kenchuji.com/ |
駐車場 | 〇 |
参拝日 | 2022/4/27 |
御由緒
慶安四年(1651年)に尾張藩二代目藩主「徳川光友」が父徳川義直の菩提を弔うと共に尾張徳川家代々の菩提寺とするべく下総国結城の弘経寺住持であった成誉廓呑上人を開山として建立された浄土宗の寺院になります。
弘経寺は、山号を寿亀山とし、茨城県結城市西町にある浄土宗の寺院であり、文禄年間(1592-96年)に徳川家康次男「結城秀康」によって創建された。
境内は約五万坪にもおよび歴代藩主の霊廟が建立され、浄土宗の別格本山として塔頭寺院、末寺を有していた。天明五年(1785年)、大曽根で発生した大火によって建中寺も延焼、五代藩主徳川五郎太の御霊屋、総門、山門を除く、歴代藩主の御霊屋並びに堂が焼失してしまう。天明六年(1786年)から翌七年(1787年)にかけて再建中興された。
明治時代になると、尾張徳川家の庇護も無くなり、境内は縮小され、明治五年から八年(1872-85年)にかけて徳川義直以外の御霊屋や門などが撤去され他寺院へと移築され、残った義直の御霊屋は徳川家霊廟として歴代藩主の位牌が祀られた。
太平洋戦争後は、名古屋市野戦災復興都市計画によって建中寺の境内はさらに縮小を余儀なくされ、塔頭の宗心院、誓安院が移転し、その場所は建中寺公園として造成された為、現在では総門がそのまま公園内に残っています。
- 慶安四年(1651年):成誉廓呑上人を開山として創建
- 慶安五年(1652年):総門・山門・塔頭などが完成
- 元禄十三年(1700年):三代藩主「徳川綱誠」の廟と御霊屋が建立
- 元禄十四年(1701年):二代藩主「徳川光友」の廟と御霊屋が建立
- 正徳三年(1713年):四代藩主「徳川吉通」の廟と御霊屋が建立
- 正徳四年(1714年):五代藩主「徳川五郎太」の廟と御霊屋が建立
- 享保十六年(1731年):六代藩主「徳川継友」の廟が建立
- 宝暦十二年(1762年):八代藩主「徳川宗勝」の廟が建立
- 明和二年(1765年):七代藩主「徳川宗春」の廟が建立
- 天明五年(1785年):大曽根の大火により堂宇の大半が灰燼に帰す
- 天明七年(1787年):徳川宗陸と辨及喚阿により中興
- 寛政十二年(1800年):九代藩主「徳川宗陸」の廟が建立
- 天保十年(1839年):十一代藩主「徳川斉温」の廟が建立
- 弘化二年(1845年):十二代藩主「徳川斉荘」の廟が建立
- 嘉永二年(1849年):十三代藩主「徳川慶臧」の廟が建立
- 嘉永三年(1850年):十代藩主「徳川斉朝」の廟が建立
- 明治五年(1872年):寺格が無本寺から知恩院末寺に降格される
- 明治八年(1875年):徳川義直以外の御霊屋などが他寺院に移築
- 大正三年(1914年):萬勝寺より春姫の御霊屋が移築される
- 昭和二十九年(1954年):春姫の御霊屋が名古屋東照宮に移築される
参拝記
名古屋市西区の円頓寺商店街を後にして、名古屋城を東西に横断するような形で走っている外堀通りを当方に向けてバイクを走らせて、名古屋市東区にある尾張徳川藩の菩提寺として知られている建中寺に向かいます。丁度建中寺にたどり着いた時間は建中寺が経営しているのであろう建中寺幼稚園の園児達の退園時間と重なって、お迎えの自転車で駐車場が満車になっていました。自分はバイクで廻っているのでこういう時駐車場に困らないのが助かります。
総門
建中寺の南にある「建中寺公園」の南端部分にある四脚門の総門になります。元々はこの総門から三門までの間に塔頭が参道を挟んで左右に建っていた様ですが、現在は由緒の中でも触れていますが、戦後の復興都市計画によって塔頭が建っていた場所は建中寺公園として整備されており、この総門と脇幣が往時の建中寺の大きさを現代に伝えてくれています。
戦後、名古屋市内の279寺の墓地約18ha(189030基の墓石)を平和公園に移設するという戦災復興土地区画整理事業が行われ、建中寺にあった尾張徳川家の墓所もその対象となり、歴代藩主の墓石が整理されています。平和公園に移設されたのは徳川宗春の墓石だけのようで、残る墓石は魂抜して破却された様です。うち3基は残されて現在は建中寺の寺号標に転用されているようです。
確証はありませんが、たぶんこの寺号標が歴代藩主の墓石を転用した寺号標になるんだと思います。もう一つは三門脇に据えられた寺号標だと思うのですが、そういえば残り一基は確認できていません。次回参拝した時には確認してみたいですね。
総門から建中寺公園から三門方面を望みます。このアングルからの視点だと石畳の参道が残されていたり、木々のバランスから今でも参道の左右に塔頭が残っていた戦前の建中寺の様子を想像することができる気がしてきます。
須佐之男社
総門向かって右手に鎮座する小さな社なんですが、江戸時代からこの場所に鎮座しているんでしょうか。そう思ってしまうくらい神社の社と建中寺の土塀の一体感が凄まじい感じがします。
三門
総門から建中寺公園を抜けた先にある三門(山門)は。慶安四年(1651年)の創建当時の建築物になります。総檜造りの重層門という造りで一階部分にも屋根が設けられているのが特徴です。
手水舎
今まで見てきた手水舎の中でも非常に希少で特徴的な造りの切妻造瓦葺で角柱の支柱が設けらえた丸柱の二本柱タイプの手水舎になります。支柱にさらに倒壊防止の鉄製の支え柱が設けられているという地震対策万全な手水舎ですね。
本堂
入母屋造瓦葺平入の唐破風のある向拝と高欄のある濡れ縁が設けられた本堂になります。尾張徳川家の菩提寺という事でかなり大規模な本堂になります。
向拝部分の彫刻などは鳥害対策で金網で保護されています。
明王殿(不動堂)
昭和四十四年再建の明王殿(不動堂)になります。境内の説明書きによれば本尊である不動明王は江戸時代から尾張徳川藩戦勝祈願の秘仏として伝えられてきたとあります。
御成門
元々は尾張藩五代藩主「徳川五郎太」の霊廟の門として建立され、昭和初期に現在の場所に移築された門になります。
鐘楼
天明七年(1787年)再建の袴腰のある鐘楼になります。太平洋戦争時の金属供出を免除された500貫(1923kg)の梵鐘がつるされているようです。
源正公廟
尾張徳川家二代藩主「徳川光友」の霊廟になります。現在、建中寺に残された唯一の尾張藩主の霊廟になります。
陳元贇墓所跡石碑
江戸時代初期に中国より来日した文人になります。江戸初期の中国は清国の侵略を受けていた明国は多くの文化人などが国外に避難していたとされ、陳元贇もその内の一人だったようです。真偽は不明ながら日本に拳法を伝えた人物とも言われているそうです。
寛永四年(1627年)に徳川義直に拝謁し、そのまま尾張藩に仕えたそうで尾張城下の自宅で亡くなり、墓所がここ建中寺に建てられたが、戦後の名古屋市の復興政策によって現在は平和公園に移設されています。
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所在地を地図で確認
寺院名 | 徳興山建中寺 |
所在地 | 名古屋市東区筒井一丁目七番地五十七号(GoogleMap) |
最寄駅 | 鉄道:名古屋市営地下鉄「車道駅」徒歩10分 バス:名古屋市営バス「東区役所バス停」徒歩5分 |