高津宮(大阪市中央区)

神社情報

神社名:高津宮
鎮座地:大阪府大阪市中央区高津一丁目一番地二十九号
御祭神:仁徳天皇、仲哀天皇、神功皇后、応仁天皇、葦姫皇后、履中天皇
旧社格:府社
創 建:貞観八年(866年)
例大祭:7月18日
御朱印:〇
H P:〇

高津宮(高津神社)〜大阪市中央区高津〜古典落語「高津の富」の舞台にもなったお宮です。
古典落語「高津の富」の舞台にもなった高津宮。昔から人々がにぎやかに集う神社です。由緒正しき神前結婚式はもちろん、落語会など、浪速の伝統文化にちなんだイベントをたくさん行っています。

参拝日:2014年7月28日

御由緒

当宮は浪速の地を皇都と定められ大阪隆昌の基を築かれた仁徳天皇を王神と仰ぐ神社であります。
或日、高殿に昇られて人家の炊煙の乏しいのを見られてその窮乏を察し直ちに諸税を止めて庶民を救済されました御仁政は洽く国民の敬慕する処であります。

「高き屋に 昇りて見れば 煙建つ 民のかまどは 賑ひにけり」

 その御仁政を慕い平安期の初期清和天皇の貞観八年勅命によって旧都の遺跡を探索して社地を定め社殿を築いてお祭りしたのを創始といたします。以後世々皇室を始め時の幕府等の度々の御造営寄進を重ねて浪速津の守護神と仰がれ御神威輝き渡ったのでありますが、その後七百年を経た正親町天皇の天正十一年、比売古曽社の現在地に御遷座。今日に及んでおります。
昭和二十年三月の第二次大戦の戦火を浴び神輿庫を一つ残して社殿悉く鳥有に帰しましたが、戦後氏子を始め崇敬の厚い奉賛により昭和三十六年十月社殿以下ことごとく復興完成を見ました。

明治五年大阪府社に列格、同三十九年神饌幣帛料供進指定神社に指定、昭和三十四年神社本庁別表社に加列。

高津宮境内由緒書きより

参拝記

現在では豊臣秀吉の大阪城建築の際、現在地に鎮座していた”比売古曽社”に遷座されており、厳密にはずれてはいるのですが、清和天皇の御代に勅命として探索した”難波高津宮”の宮殿跡に創建された神社なんだとか。

大阪市に所用で行った時に少し時間があったので偶然散策したのが今回紹介する”高津宮”になります。

境内入口

こちらが高津宮の参道入口になります。
社号標前がごみの集積場になっているのがちょっと残念ですね。

ストリートビューは高津宮境内入口から振り向いた景色になります。

道を挟んだ対面には、真言宗醍醐派の高津山報恩院が鎮座しています。高津宮を参拝した時は当然?寺院の霊場巡りにまったく関心を持っていなかった時だったので、参拝などもしていないのですが、よくよく調べてみると、摂津国八十八箇所 第二十一番札所、近畿三十六不動尊霊場 第五番札所、おおさか十三仏霊場 第十一番札所に選ばれています。霊場を満願することは不可能かもしれませんが、今だったら参拝して納経帳とかも手に入れてそうな気がします・・。

参道

趣きのある参道が境内に向かって真っすぐに伸びています。

参道途中にある注連縄柱になります。
向かって右柱に「仁風敷宇宙」左柱に「徳化洽乾坤」と彫られています。
左右の柱一文字目を取ると「仁徳」と読めますね。

こういった注連縄柱なんですが、岡崎周辺ではあまり見かけないですね。いや・・・もしかしたら見落としているだけかも?これからはもっと注意深く神社参拝していかなければ。

注連縄柱を超えると、太鼓橋が見えてきます。梅の橋と言われる橋で江戸時代には「梅川」という川が流れていて、道頓堀川に流れ込んでいたそうです。今では枯渇したのか、流れが変わっているのか、川ではなく小さな池の様なものがあるだけです。

さらに参道を進むと、参道の両脇に石碑が据えられていて、更にその横に井戸跡がありました。
「梅之井」と彫られた石碑は、明治三十二年に行われた仁徳天皇千五百年大祭の時に建てられた物だそうです。

そのほかに、北野恒冨の筆塚や昭和三年に行われた高津宮献梅会によって建てられた「献梅塚」などが据えられています。

参道を進むと、参道の幅以上に広い石段が境内まで続いています。

石段を登っていくと、正面に社殿が見えてきます。

手水舎・水盤

銅葺四本柱タイプの手水舎になります。
非常に柄杓の本数も多く、参拝される方が多いことを物語っていますね。

狛犬

非常に尾が特徴的な陶製狛犬になります。岡崎周辺でみる狛犬とは趣を異にしています。
ちなみに、生年月日は調べ忘れました・・・。

社殿

切妻の屋根に、更に千鳥破風付きの切妻大屋根を載せた社殿に唐破風の向拝が設けられています。中々説明しづらい様式の社殿になっています。昭和三十六年に再建された社殿だそうで、コンクリート造りの拝殿になっています。

絵馬殿

仁徳天皇が「高き屋に 昇りて見れば 煙建つ 民のかまどは 賑ひにけり」と歌った高殿をイメージして作られた絵馬殿だそうです。奉納された絵馬が掲げられていたり、千石船の模型が飾られていたりしています。

この絵馬殿を囲むように設けられている石段は相合坂と呼ばれ、縁結びの坂とされていて、

こちらは、西坂といい、昔は坂の形状が三行半になっていたという事で縁切りの坂と呼ばれるそうです。

同じ神社の境内で、縁結びと縁切りの両方の坂があるのはすごいですね。

境内社

比売古曽社になります。祭神は下照姫命になります。
延喜式神名帳の「摂津国東生郡 比売許曽神社」の論社の一社(※)になります。古くからこの地に鎮座してきましたが、高津宮がこの地に遷座以来、高津宮の地主の大神として祀られているそうです。

(※)もう一社の論社は大阪市東成区東小橋に鎮座する「比売許曽神社」になります。

社殿向かって右側に鎮座する、高倉稲荷社になります。

境内社とはいえ、この地の方に非常に崇敬されている雰囲気が漂っていますね。

初見で少々戸惑ったのですが、幟や絵馬ではなくミニ鳥居の奉納が行われています。稲荷社と言えば赤い鳥居ですが、鳥居を奉納するには少々敷居が高いですが、こんなミニ鳥居は稲荷の雰囲気も出ていいかもしれませんね。

白菊社(祭神:草野姫命)、千年社(大市姫命)、常高社(祭神:大山衹命)の相殿になります。

祠の前で振り返ると

陰陽石が据えられています。

石段上にみえるのが高倉稲荷社です。

御輿庫

高津宮で唯一第二次世界大戦の空襲を潜り抜けた建物になります。

唐破風の向拝部分の屋根にはこの蔵の守護神である龍の彫り物が掲げられています。

なかなかの迫力ですね。

参拝を終えて

拝殿内に掲げられていた、昭和四十四年(自分が生まれる前ですね・・・。)大阪場所の横綱大関の手形だそうです。大相撲に興味なくても一度は名前を聞いたことあるであろう力士ばかりですね。

ちなみに、一番右側の手形が横綱玉乃島(昭和四十四年時点では大関)の手形になります。この玉乃島関は愛知県蒲郡市出身で悲劇の横綱とも呼ばれる横綱です。急性虫垂炎とそれに伴う血栓症で、まだ現役の27歳で亡くなってしまいます。6度の幕内最高優勝を飾っており、まだまだこれから全盛期を迎える時だったので、どれだけ優勝回数を重ねていったかを想像するだけでも考えただけでも相撲界にとって大きな損失でしたね。

予想外に地元と縁がある物も見つけ、これの紹介を記に、蒲郡市の玉乃島関の所縁の場所も伺っていこうと思います。

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