本松山高月院(愛知県豊田市松平町)松平親氏・泰親菩提寺

寺院情報

寺院名本松山高月院
所在地愛知県豊田市松平町寒ケ入四十四番地
御本尊阿弥陀如来
宗 派浄土宗鎮西派
創 建貞治六年/正平二十二年(1367年)
札 所法然三河 一番札所
御朱印
H Pyoutubeチャンネルあり(こちらから

参拝日:2019年6月26日

沿革・由緒

 松平郷を切り開いたとされるのは、康永年間(1342-45年)にこの地に下ってきたという公家の在原信盛であるとされ、そして松平郷を本貫としたことから松平姓を称するようになり松平信盛と称しています。(在原氏の墓所前、豊田市教育委員会設置案内板より)

 豊田市では松平氏の出自は「在原氏」であるとしている様ですが、賀茂氏、鈴木氏などの出自であるという説もあり正直な所、判明していないのが実際の所の様です。
 「松平由緒書」によると、連歌の催しの後、信重が親氏(松平由緒書きでは信武)に、松平郷に暫く留まってほしいと話をしている中で、「恥ずかしいが、私の家の凡てについて委しく由来を話します。とくとお聞きください。先祖と云うのは在原の由緒とも申します。また一つには紀州熊野の鈴木の系統とも申します。委しくは知りません、但し、今では原姓は不詳と申します。」と話したと記されています。

 松平(在原)信盛の子である松平信重は、父の菩提を弔うために貞治六年/正平二十二年(1367年)に見誉寛立を開山とする寂静寺を創建します。この寂静寺を開山した「見誉寛立」は一説には俗名を足助重政といい、足助次郎重宗の子であるとする伝承が残されている一方で、元弘元年(1331年)九月の「笠置山の戦い」で御醍醐天皇側の将として戦い、笠置山陥落後に捕縛後、京都六条河原にて処刑された足助氏七代「足助重範」の子であるいう伝承があります。
 足助重政が「足助重宗の子であるという説」と「足助重範の子であるいう説」の両方の説が高月院に残された寺伝の中に記されているそうです。

・足助氏とは?

 東加茂郡足助郷を本貫とする国人衆になります。浦野重遠の孫重長が足助に移り住み、足助氏を称したのが始まりと伝えられており、代々「飯森山城」を本城とした一族になります。

 浦野重遠とは、源重遠とも称し、源満政の子孫であり、尾張国春日井郡浦野に移り住んだことから浦野姓を称し、後裔が尾張国内で勢力を広げ、三河国にも進出した事から尾張源氏の始祖とも呼ばれる人物になります。

 清和源氏満政流は朝廷との繋がりが強い一族であるともされ、承久の乱、後醍醐天皇による討幕計画など鎌倉幕府と朝廷が対立した際、朝廷側について幕府側と戦ったと伝えられています。

 六代貞親は後醍醐天皇最の討幕計画に参加するが幕府側の六波羅探題に露見し自害。
 七代重範は二度目となる後醍醐天皇の討幕計画が幕府側に露見し、笠置山に逃れると、後醍醐天皇の元に真っ先に馳せ参じたと伝えれ、御醍醐天皇の守兵2500名の総大将として幕府軍75,000名の大軍を相手に防御戦を繰り広げますが破れ幕府側に捕らえられて六条河原にて処刑されています。

 この後、南北朝時代になっても南朝方として宗良親王の軍勢に加わるなどしていましたが、結局足助の地を離れて一族離散してしまったと言われています。

                  二条良基
   ┏ 重貞              ┣ 成瀬基久(成瀬家祖)
   ┣ 貞方           ┏ 滝野
重方 ╋ 頼方 ━ 貞親 ━ 重範 ┻ 重政
   ┣ 親重
   ┣ 重藤 ┳ 重経 ━ 重宗
   ┃    ┣ 重武 ━ 重信
   ┃    ┗ 賢尊
   ┗ 重連 ━ 重成

 京の戦乱を避けこの地に逃れてきた二条良基は、足助氏の居館に滞在していたとされ、この時重範の娘「滝野」と結ばれ一子を設けます。この子が後の成瀬基久であり、成瀬家の祖となっていきます。成瀬氏は親氏の代から松平家に仕えたという古参の譜代であり、犬山城主としてその名を知られていますね。

 足助氏の居城だった「飯森山城」はその後足助氏の菩提を弔う為に二条良基、足助重範の娘・滝野と、孫である成瀬三吉丸基久・基直らによってえ「香積寺」が建立されています。

 この寂静寺建立の翌年となる応安元年/正平二十三年(1368年)に後に松平親氏となる徳阿弥(徳翁斎まただ信武)が松平郷に入郷し、寂静寺開山の見誉寛立に深く帰依した「松平親氏」は寂静寺を松平氏の菩提寺にするべく本尊である阿弥陀如来像を始め伽藍を建立寄進し、山号、院号もなかったことから「本松山高月院寂静寺」としています。

 よく知られている松平親氏の伝承は、「相模国の時宗総本山清浄光寺にて剃髪し徳阿弥と称し三河国に流れてきた。」となっていて、松平親氏は時宗の僧侶だったわけです。時宗は浄土宗の一宗派であると言われるほど時宗と浄土宗の結びつきは強い訳ですが、いくらそれでも、時宗ではなく浄土宗の見誉寛立に帰依するなんて事はあるのでしょうか。もうこの時には還俗していて松平親氏となっていたから宗派は関係なかったという事なのでしょうか・・。
 ちなみに、松平家は歴代浄土宗に帰依しており、松平家の菩提寺とされるここ高月院、岩津の信光明寺、井田野の大樹寺はすべて浄土宗の寺院になります。

「松平由緒書」では、信武(親氏)が松平信重との会話の中に自らの出自について述べている部分があります。
 「惣じて我等と申すは東西南北をめぐりしまはる旅人のもの也」
 と自らの出自を述べており、ここには時宗の僧侶であるということは書かれておらず、旅人であるとしています。室町時代において全国を旅してまわり、連歌会などで執筆役をこなせる知識を有しているという身分の人達はどういった人達だったのかという事を考えると信武(親氏)の出自が見えてきそうな気がします。
 平野明夫は著書「三河 松平一族 ~徳川将軍家のルーツ」の中で、親氏はその専門は不明ですが文字の読み書きだけでなく色々な所作を身に着ける必要のあった職人であり、こういった職人は室町幕府より特権を与えられ日本全国を廻っており、この旅の中で松平郷に立ち寄ったのではないかとしています。

 松平親氏がどういった素性の人物だたったのかについては伝承に頼らざるを得ない訳ですが、新田一族である世良田氏の後裔であるという説は現在ではほぼ仮冒であると断定されています。そうなると相模国清浄光寺にて剃髪する必要もなくなる訳で、時宗の僧侶として行脚していたのかも怪しくなってしまいます。彼がどういった立場だったのかは推測の域を出ませんが、少なくとも時宗の僧侶として松平郷に入郷したわけではなく、松平郷の高月院にて見誉寛立と出会い浄土宗に帰依した事がその後の松平氏一族が浄土宗を信仰していく切っ掛けになったことは間違いないといえます。

 それまで伝承の域を出なかった松平氏と高月院の関係も、時代が進むにつれ史料が残される様になり、その歴史も分かってくるようになります。特に、安祥松平家初代「松平親忠」の五男であり、知恩院二十五世も務めた「超誉存牛」が高月院七世として天文一四年(1545年)に高月院に入り、堂宇などの整備を行った中興開山以来、寺暦がハッキリとしてくるそうです。この為、存牛による中興開山が事実上の開山であるとする考えもあるようです。

 徳川家康は、天文十八年(1549年)八歳の時、今川義元の元に人質として赴く前に高月院を訪れ霊廟を参拝し、この時超誉存牛から説法を受けたと言われています。さらに永禄三年(1560年)にも訪れこの時、山門近くに一本の松を植えたと伝えられています。
 徳川家康の関東移封により松平郷も豊臣秀吉の家臣で岡崎城主となった田中吉政の領内に組み込まれますが、関東に移らずこの地に残った松平郷松平家と共に松平氏発祥の地である地を守り通しています。そして江戸幕府開幕後、幕府より100石の朱印状が与えられています。松平氏発祥地という事で幕府の庇護も厚く、三代将軍徳川家光の時となる寛永十八年(1641年)境内の伽藍をすべて再建され、その後も幕府によって維持改修が行われています。

松平家霊廟

 高月院には墓地の中で一番高い場所に石壁で囲まれた松平氏霊廟があります。松平親氏、松平泰親、閑照院皎月尼(安祥松平家初代松平親忠夫人)の三基の宝篋印塔が安置されています。室町時代などに造られた宝篋印塔や五輪塔は欠損している場合が多く、高月院の宝篋印塔も例外でなく塔身が欠損しています。

 明治二十三年(1890年)には元大和郡山藩の柳沢保申によって補修工事が行われています。石門と石塀を築造、木柵の玉垣を花崗岩の塀に改築したという内容らしく、現在の松平家霊廟の姿にこの時になったということですね。基壇の石が結構新しめなので、この明治の補修工事で新たに作られた基壇なんだろうと思うのですが、この辺りで一つ疑問が・・・この三基の宝篋印塔は元々現在の様に並んでいたのでしょうか。大樹寺の松平家八代の霊廟は元々墓がバラバラになっていたのを改修工事によって現在の様に並ぶ姿に変貌している事を考えると、三基の宝篋印塔は高月院の境内にバラバラに建っていたと考えるのが妥当な気がしてきます。

松平郷松平家一族の墓所

 高月院の墓地は、三段に分かれていて、上段が松平家霊廟、中段が歴代住職墓地、下段が松平氏一族の墓地となっています。下段には松平郷松平家九代松平尚栄・第十代松平重和の墓石があり、尚栄の室の墓石も並んでいるそうで、松平郷松平家の一族の墓石が並んでいる様です。風化により判別不能の墓石が多数あるそうです。

参拝記

 高月院の門前にも駐車場があるのですが、松平郷を訪れる方の多くが松平郷共同駐車場に車を止め、松平東照宮を参拝してから松平郷園地を抜けて高月院に向かっているみたいですね。

 松平郷園地を進んでいくと、高月院の山門と土塀が見えてきます。参道の両端に設けられた白く漆喰?が塗られた土塀と山門の組み合わせが高月院の特徴的な境内入口を形成しています。

 高月院の門前に据えられている石碑がありまして、高月院、松平東照宮、松平城址、大給城の四ヶ所を統括して松平氏遺跡として国の指定史跡に平成八年に指定されています。

山門

 総門の高麗門になります。この高麗門は徳川家光の時代になる寛永十八年(1641年)に建立され、当時の姿のままであるとされています。現在2021年ですので、あと20年後は建立400年なんですな。

手水舎

 非常に特徴的な外観の手水舎になります。水盤はいたって普通の形状なんですがね。この手水舎・・何と形容していいのかよくわかりませんが、記憶には残る様式です。

中門

 ここから境内が一段高くなっていて、石段を上った先に山門となる四脚門があります。この門の下には徳川家康が松を植えたという伝承があるのですが、今は徳川宗家十八代恒孝氏による手植えの松があります。

本堂

 入母屋造平入瓦葺の向拝と濡れ縁が設けられた寛永十八年(1641年)建立の本堂になります。建立時は檜皮葺だったという史料が残っていますが、その後も何度か幕府直轄で改修工事が行われていく中良で瓦葺に変更されたんだと思います。寛政四年(1792年)には総修理が行われており、この時の棟札には幕府老中六名も名を連ねています。

 本堂には、明治時代の御香料の札が鴨居に掲げられいました。その名前を見ると、侯爵、伯爵、子爵という肩書をみると、明治政府により爵位与えられた徳川氏や譜代大名の当主が並んでいます。

御朱印

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所在地を地図で確認

寺院名本松山高月院
所在地愛知県豊田市松平町寒ケ入四十四番地
最寄駅豊田市おいでんバス 下山線「松平郷バス停」徒歩11分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある”村の鎮守の神様”と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな”知多四国霊場”を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

仏像とお寺の解剖図鑑
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