名所旧跡など

古塚七ヶ所(古渡七塚)

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 名古屋市中区正木二丁目に鎮座する「闇之森八幡社」の由緒を調べている中で、境内に据えられている「鎧塚」について源為朝伝説の他に、古渡地区に伝わる古塚七ヵ所の一つと数えられている事を知りました。この七ヵ所の塚は現在では消滅してしまった物が多いのですが江戸時代からの文献にも記載されるなどこの辺りの歴史を調べる中で外せない七ヵ所の様な気がして、令和五年(2023年)最初の”あいちを巡る”企画として巡ってみる事にしました。

古塚七ヶ所とは?

 江戸時代、文政五年(1822年)に樋口好古が著した「那古野府城志」の古渡村の段の中に「古塚七か所府尹志三所記如厄」と書かれている項目があります。

 その七ヶ所とは

  • 義次塚・・・今失其所或云泰雲寺境内
  • 為朝塚・・・元興寺裏畑にあり
  • 山伏塚・・・新町裏にあり
  • 鎧塚・・・・闇森の内にあり
  • 金塚・・・闇森畑中にあり
  • 方葉塚・・・東田面内にあり
  • 鎌之神塚・・東田面野田と云田中にあり

 以上七ヵ所を指すのですが、このうち最初の義次塚と為朝塚については説明書きがされていますが、これ以外五カ所については詳細は書かれておらずどこに塚があるのかくらいしか書かれていません。

 これを補足するように大正四年に発刊された名古屋市史・地理編ではもう少し詳しく各塚について説明されています。ここではこの名古屋市史に沿って各塚を紹介しつつ、その塚が現代のどこにある(あったのか)を補足してきます。

為朝塚

 義次塚は中区正木町四百三十三番地(元興寺裏)にあり。面積三十一坪、五輪石塔一基、安永四年の銘ある。石灯籠の柱一本及び古松一株あり。従来の俗に謝りて為朝塚と呼べりと云ふ。

 『元興寺(がんごうじ)とは、今から一三〇〇年以上前に建立された古代寺院であり、創建時は干潟や伊勢湾を望む場所に建立されたと考えられ、発掘調査は十数回にわたって行われいるが、伽藍の意向は発見されていない。出土された瓦から創建は七世紀中頃から後半と考えられています。』

元興寺の北側に「尾頭塚」と彫られた石碑があり、傍らには社が鎮座している場所があります。この尾頭塚が為朝塚であると伝えられています。

義次塚

 為朝塚は中区正木町、泰雲寺の境内、鐘楼の東にあり。大なる石あり。上に一小祠を安じ、為朝を祀りたりき。

 名古屋市史の記述内容は先に紹介した「那古野府城志」とは義次塚と為朝塚の説明が入れ替わって書かれています。名古屋市史の中でも風俗編では「那古野府城志」と同様の記述となっている事から地理編の方は誤植なのかなと思っています。

名古屋市中区正木四丁目二番地二にある臨済宗妙心寺派の桂昌山善雲寺の境内に義次塚があったとされていますが、現在は消失しているようです。

山伏塚

 山伏塚は市譜、蓮城亭随筆に新町西裏の畑中に有りと見え、俳諧古渡集に「昔古刑罰に逢し跡の印となん。町家と畑の境にちいさき塚有。印に榎一本残れり。或井はかしこをたち、ここを切、塚をちゞめける、夜俄に大熱におかされ、きびしきたゝり有。頓て塚に向かい、香花燈明を捧、降参しければ忽ち止むと也。」と見えたり。

名古屋市中区金山一丁目八番二十三に鎮座する白山社に山伏塚があったとされています。現在、山伏塚が現存しているかは不明。

鎧塚

 鎧塚は中区正木町、八幡社の境内に在り。今の尾頭神社の社地なり。義次又は為朝の武具を埋めし所と云ひ傳へたり。文政年間、里人誤りて此の地を堀りしに、神器を発掘せしかば、亦舊の如く納め置きしと云ふ。

名古屋市中区正木二丁目六番地十八に鎮座する闇之森八幡社の境内にあり。

この鎧塚については当サイトでも「闇之森八幡社」の紹介記事で紹介していますので是非「こちら」をご覧ください。

金塚

 金塚は中区正木町五百三十一番地及び古渡町六丁目二十六番地に在りて、面積六歩、今称して「義兼の塚」と云えり。今榎の大樹一株ありて、傍に一小祠を安んじ、明治十八年五月、追遠報本の碑(尾頭氏の略歴を叙す。文は角田忠行撰)を建てたり。

 闇之森八幡社の境外社であった「榎白龍明神」の境内にあったとされていますが、名古屋市史の説明には「追遠報本」の石碑が置かれたとある事から「榎白龍大神」の境内だった可能性も否定できないのかなって気がします。
 榎白龍明神は令和二年(2020年)に闇之森八幡社の境内に遷座しており、以前の境内地にはマンションが建てられており消失しています。

片葉塚

 片葉塚は古渡町に在りて、一本木とも云える闇の森の東門、大阪屋の横町を東南に行き、東へ下る所の田の中にある小塚なりと云う。むかしは一間四方もありしが後至って小き塚となれりとぞ。

名古屋市中区平和二丁目周辺にあったと伝えられているが、現在は消失しており詳細は不詳。

かまの神塚

 かまの神塚は今その所在詳ならず。市府蓮城亭随筆には「闇の森の東、野田と云える田中に在り。」と見え、猿猴菴随筆には「元興寺のうしろの畑中にあり。」と見えたり。

名古屋市熱田区金山町一丁目十六番地十九に鎮座する「金山神社」にかまの神塚があったとされています。現在、かまの神塚が現存しているかは不明。

古塚七ヵ所を巡って

 どういった括りで”七塚”と呼ぶようになったのかは不明ですが、七塚の内四ヶ所は源為朝伝説に関係する塚になっています。古渡という地にとって、源為朝伝承が色濃く受け継がれていたのかを感じ取れます。これは為朝の子孫であるという尾頭氏・鬼頭氏が一族の伝承を大切にしていた証左ではないでしょうか。

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