八幡神社松平東照宮(愛知県豊田市松平町)

神社紹介

神社名八幡神社松平東照宮
鎮座地愛知県豊田市松平町赤原十八番地
御祭神誉田別尊、天照大御神、伊邪波登美命、宇迦御魂命、徳川家康
旧社格村社
創 建弘安二年(1279年)
神名帳
境内社辨天社
例祭日四月十七日
御朱印
H P

参拝日:2019年6月26日

御由緒

 松平郷を切り開いたとされるのは、康永年間(1342-45年)にこの地に下ってきたという公家の在原信盛であるとしています。(在原氏の墓所前、豊田市教育委員会設置案内板より)

 現在松平東照宮が鎮座する境内地は元々在原信盛が築いた居館跡になります。信盛の嫡子「在原信重」は父の跡を継ぎ更に松平郷を切り開き、十二人の使用人に十二具足を与え、松平郷の街道を整備し、武術だけでなく歌道に精通し連歌会などを開いていたとされています。ある時、信重の連歌会を遠くから見ていた人物の中に、偶然この地を訪れていた親翁(信武)の姿がありました。連歌会の記録する人物が不参加となってしまった為、信重は会場にいた人物の中に親翁の姿を見て、その立ち振る舞いに教養を見出し記録係をお願いし、親翁はその係を勤めあげたといいます。この縁で暫く信重の館に滞在していた親翁ですが、そろそろ松平郷を出立しようとしたとき、信重より娘”水女”の婿となって当家を継いでほしいと言われ、弟である用金(後の松平泰親)をこの地に呼んでいいのでしたらこの話をお受けします。」とし、弟を松平郷に呼び寄せ、親翁は在原氏に入婿となり、信重の館に入り、その後松平郷の領主を継ぐことになります。親翁は「松平太郎左衛門尉親氏」と改称し以降この居館は松平太郎左衛門家の当主が住む館となっていきます。

松平太郎左衛門家とは?

 松平親氏を始祖とする松平家の宗家筋にあたる血筋になるかとおもいます。(松平郷を領地としていることから松平郷松平家とも呼ばれます。)しかし、その後、岩津松平家が発展し、更にその分家筋になる安祥松平家から徳川家康が生まれた事から松平家の宗家筋は岩津松平家の系統であると見られていますが、在原信重、松平親氏、松平泰親が使用した「太郎左衛門(少尉)」の通称を受け継いでいる事から本来は松平宗家であったはずですが、松平氏が拡大していく中で徐々に庶家となっていったと思われます。しかし、松平家発祥の地を守っている血統であることは間違いなく、江戸幕府からは440石の旗本でありながら参勤交代のある交代寄合としての待遇を受けていました。

在原信盛 ━ 太郎左衛門信重 ━ 水女     ┏松平太郎左衛門信広
                  ┣━━━━━┫
            ┏松平太郎左衛門親氏  ┗松平和泉守信光
            ┃
            ┗松平太郎左衛門泰親

 松平泰親は、親氏が死去した後、嫡男である信広が元服するまでの間松平家の当主を引き受けたとも言われ、信広が元服すると当主を信広に引き継ぎ、松平郷を出て、新たに獲得していた岩津郷に信広の弟松平信光と共に移り住んだとも言われています。

 「松平家由緒書」によると、在原信盛が築いた屋敷の北東部分に氏神が一社祀られていた。近くには井戸がありこの井戸から神があがり給うたと伝えられているので、この社を「水神八幡」と称したとあります。また屋敷内でご誕生があった時、産水にこの井戸の水を汲み上げた事から「産の八幡」とも「産神」とも呼ばれたとしています。
 この井戸は現在、「産湯の井戸」と呼ばれており、松平東照宮の北東側に現在もあります。そして、この井戸の隣には、水神八幡(産八幡)の社が鎮座しています。この社は旧八幡神社(若宮八幡宮)の社殿であったそうです。

 松平親氏は、城山と呼ばれる場所に松平城を築城します。築城年についてはよくわかっていませんが、応永年間(1394年〜1428年)頃の築城ではないかと言われており、松平郷の詰城になります。こういった詰城を築かなくてはいけないほど松平郷が発展していた証左ではないかと思います。

 本城が平地に建つ居館だった場合、いざ敵に攻められたら立て籠もるための城が本城のそばに築かれていました。この立て籠もる為の城を「詰城」と呼びます。

 この松平城に守護神として勧請されたのが若宮八幡宮になります。どの神社より勧請されたのかはよくわかりませんが、一説には鶴岡八幡宮であるとも伝えられています。

 元々松平郷を切り開いた在原氏、これを継いだ松平親氏、泰親は有徳人とされる様に、武力ではなく経済基盤を強化する事でその影響力を拡大してきました。松平家が信広系と信光系と分かれた時、信広は今までと同じ形での松平郷の運営を選択したのに対し、信光は武装化を強化し武家となり領土を急速に広げていく事になります。その為、松平郷からほど近い大給城を信光が攻め落とし、子である乘元に大給城を与え大給松平家が起こると松平郷は大給松平家の影響下に置かれていく事になります。
 そして、徳川家康が関東移封で江戸に移り、三河には豊臣秀吉の家臣田中吉政を岡崎城に入城し、松平郷も田中吉政の所領に組み込まれる事になります。関東移封に付き添わず、松平郷に残っていた松平太郎左衛門家の所領は接収され、言わば帰農した状態になっていたと推測されます。

 しかし、慶長五年(1600年)の関ケ原の合戦に松平太郎左衛門家九代松平尚栄は徳川家康の元に馳せ参じ従軍しています。どういった切っ掛けで尚栄が関ケ原の合戦に従軍したのかは不明ですが、この時の軍功などによって経帳十八年(1613年)旧領である松平郷220石を拝領し、居館を改築しています。更に、徳川の世となり不要となった松平城を廃城とし、守護神として祀っていた若宮八幡宮を居館内に遷座させています。大坂の陣にも参戦し、軍功を挙げたとして230石の加増を受けています。

 元和五年(1619年)、久能山東照宮より徳川家康公(東照公)の御分霊を勧請し東照宮を創建しています。(正保二年(1645年)十一月三日に朝廷から宮号が宣下され、久能山東照宮と称するようになりましたが、それまでは久能山東照社と称していたそうです。)

 松平太郎左衛門家は尚栄が拝領した450石を明治維新まで維持し、その後は帰農し、大正時代に松平郷を離れて東京に移っています。そして、昭和初期に松平太郎左衛門家の居館跡に八幡神社と東照宮を合祀した新たな社殿を建築し、それまでの社殿は産湯の井戸横に鎮座する水神八幡/産八幡の社となっています。

 元々松平東照宮は松平親氏が松平城の守護神として勧請した八幡神社の境内社(摂社)として創建されています。それが昭和に入って八幡神社と東照宮が合殿となっていますが、昭和十一年発刊の松平村誌を見ると社名は「八幡神社」となっていて摂社に東照宮がありと記されています。ただ、境内にある鳥居を見ると昭和六年建立となっているので、この頃造営工事が行われたのかな。昭和五十八年の社名改称で「八幡神社松平東照宮」と東照宮の名前が社名に刻まれる事になっています。この社名改称は、この年のNHK大河ドラマで滝田栄さんが主役を演じた「徳川家康」が放送された事が多大に影響している気がしますし、松平郷全体が一気に観光開発され、観光客が非常に増えた事も要因の一つではと思っています。

 松平東照宮は徳川家康公を御祭神とする四十七社が加盟する「全国東照宮連合会」に参加しており、この全国東照宮連合会では以前、家康公400年祭記念「全国東照宮めぐり」という企画を2015年に行っていて、この時に東照宮巡り専用の御朱印を発刊したとか。そういえば、岡崎市でも家康公400年のイベントが行われていましたが、なんで没後400年をイベントにするんだ?と不思議に思っていたんですが、このイベントは全国的なものだったようですね。

 社伝に弘安二年(1279年)右近中将在原業平十九代信盛が本村を拝領して入郷後産土神として祀る。(古書にこの神、井戸より上り給う水神八幡、産八幡とも云うとあり。)その後松平太郎左衛門尉親氏、松平郷の城山に若宮八幡宮を勧請する。慶長十八年(1613年)松平太郎左衛門尉尚栄、若宮八幡宮を城山より今の社地に遷座する。元和四年(1618年)三月尚栄、神君公を祀る東照宮を建立した。領主松平氏の産土神として尊崇する。
 明治六年七月、村社に列格した。大正五年三月二十四日、同大字の神明社、稲荷神社、御鍬神社を合祀する。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

参拝記

 松平郷の共同駐車場からもみえる場所に鎮座している松平東照宮になります。東照宮の境内を特徴づけている水堀と石垣は松平太郎左衛門家の居館時代そのままの物なんだとか。という事は、居館だった時には、この石垣から繋がる様に土塀がぐるっと囲んでいたんでしょうね。もしかしたらその土塀に銃眼なども設けられていたのかもしれませんね。

境内入口

 水堀を渡る土橋部分から真っ直ぐ社殿に向かう参道となっている境内入口になります。居館時代は石灯篭がある場所に門が設けられていた・・・と思います。陣屋とかだと門が冠木門だったりしますが、さすがに旗本松平家の居館になるわけですから、門扉のある薬医門とかがあったと思うんですけどね。

鳥居

 昭和六年建立の東照宮と彫られた扁額が掲げられた明神鳥居になります。正面鳥居に東照宮と掲げられている辺りを見ると、この頃八幡神社と松平東照宮の合殿への建て替え工事が行われたようです。

社号標

 境内入口に据えられている社号標は「東照宮」と彫られた物のみ。この頃から松平東照宮を前面に出そうという思惑が見えてきます。実際八幡神社の名前は見当たらないのです。現地に設置されている由緒板には、「親氏が若宮八幡を勧請した後、元和五年(1619年)に徳川家康の分霊を勧請して合祀した以降松平の権現様、松平の東照宮を呼ばれてきた。」と書かれています。由緒はもう少し正確に伝える必要があるかと思うわけです。

松平氏業跡地之碑

 愛知県が設置した松平氏業跡地の石碑になります。今では、高月院、松平城、大給城と共に松平氏発祥の地を形成する史跡であるということで国指定史跡に選定されています。

手水舎・水盤

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。何よりもこの手水舎で目を引くのは。。。

 この独特な形をした水盤ですね。水盤を支える像が四方に置かれています。神奈川の菊名神社ではこの支柱となっている石像を「がまんさま」と呼んでいるようです。

 よく見ると、石像が我慢強く水盤を長年支えているんだなと思えてきてしまうから不思議です。

社殿

 入母屋造瓦葺平入の拝殿を有する社殿になります。ここ松平東照宮には神職の方が常駐されているので、拝殿の扉が開けられています。

奥之院(産八幡、産湯の井戸)

 社殿の脇から奥に進むと、産八幡や産湯の井戸がある奥の宮に通じる参道が設けられています。

 産八幡、産湯の井戸の前には八脚門の神門が設けられています。産八幡は在原氏がこの地に館を築く以前から祀られてきた社になります。

 瑞垣と石板の覆に囲まれた産湯の井戸になります。どういった構造になっているのかはこの状態からはうかがい知る事は出来ませんが、何やら資料によると「下に降りる石段があって石段を下りて水を汲む」とあります。どれくらい石段が続いているのか実際に水を汲む所を見てみたいですね。

 旧社殿を移築した産八幡(水神八幡)の社になります。井戸を掘った際に出てきた岩を御神体とする井戸神様なんだとか。在原氏がこの地に訪れる以前からこの地に住む人たちの産土神だったんじゃないのかな。

 徳川家康が生誕した時、この井戸より湧き水をくみ上げて太郎左衛門家七代松平親長が岡崎城に届け産湯として使用したという伝承があります。まあ、岡崎城内にも家康が生誕した時に使用したという産湯の井戸がある訳ですが。実際に産湯として使ったかどうかは別としてこういった伝承が生まれるほど松平広忠の嫡男「竹千代」の生誕は松平一族が待ち望んでいたという事なのでしょうか。

 東照宮の本殿と奥之院の間にいる二宮金次郎とタヌキです。なぜここに据えられているのかは全くの不明ですが、久々に二宮金次郎像を見た気がします。

親氏公600年祭

 松平家初代松平親氏については、寺伝や社伝などの伝承は残っていますが、一次史料と呼ばれる信用性の高いとされる史料には松平親氏は登場していない為、親氏が松平郷に入郷した経緯なども様々な説が存在する結果になっている訳です。親氏が没した年についても、伝承ごとに年が異なり、1361年から1467年というほぼ100年の差が生じていたりします。
 松平町に伝わる伝承では松平親氏は明徳四年(1393年)頃に没したとされており、平成五年(1993年)に親氏の没後600年を記念して、「親氏公600年祭」が行われた様です。

地図で鎮座地を確認

神社名八幡神社松平東照宮
鎮座地愛知県豊田市松平町赤原十三番地
最寄駅豊田市おいでんバス「松平郷バス停」徒歩8分

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である”天照大御神”とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

仏縁堂ブランド:リアルさ違いますよ・鳥居付神棚(ITSUKU)総檜 お札立て お札入れ 朱印帳立て
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南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

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