ONE POINT
徳川家康の三回忌後に尾張徳川家初代尾張義直によって建立された名古屋東照宮の紹介です。江戸時代までは天台宗の尊寿院が別当と務めた神仏習合の東照宮として名古屋城内三の丸に鎮座していました。明治時代になり尊寿院は破却され神社として現在に存続しています。
神社情報
神社名 | 名古屋東照宮 |
鎮座地 | 愛知県名古屋市中区丸の内二丁目三番地三十七(Googlemap) |
例大祭 | 四月十七日 |
創 建 | 元和五年(1619年) |
御祭神 | 徳川家康 |
旧社格 | 縣社 |
神名帳 | - |
境内社
境内社 | 福神社(御祭神:大国主命、事代主命) |
文化財
国 宝 | |
国指定 | |
県指定 | 本殿 唐門 透塀 |
市指定 町指定 村指定 |
参拝情報
御朱印 | 〇 |
URL | https://nagoyatoshogu.com/ |
駐車場 | ー |
参拝日 | 2022年4月13日 |
御由緒
徳川家康公の三回忌の翌年、徳川義直は父親である神君家康公の霊廟となる東照宮を名古屋城内三の丸に創建した。
御三家と称される、紀伊徳川家、水戸徳川家も同様にそれぞれの城下などに「東照宮」を建立しており、いかに徳川家康が「東照大権現」として江戸幕府・・・徳川政権の守護神として祀られていたかを物語っているかと思います。そして、名古屋東照宮を含めた三ヶ所共に別当寺が東照宮の神事を執り行ってきましたが、明治維新により別当寺は破却され、東照宮は仏教色を取り払い神社化する事でそれぞれが「縣社」に列格しています。残念ながら、名古屋東照宮と水戸東照宮は太平洋戦争による空襲により社殿を焼失してしまっていますが、紀州東照宮は戦災を逃れており、江戸時代の雰囲気を今に伝えています。
名古屋東照宮は明治維新を迎え、神仏分離令によって別当寺である尊寿院が破却され、さらに名古屋城に日本陸軍の名古屋鎮台が置かれた事もあり、名古屋城内三の丸から尾張藩の藩校である明倫堂の跡地に那古野神社と共に遷座しています。元々の社殿が移築された様で、焼失するまえの本殿は旧国宝に指定されています。現存していたら重要文化財又は国宝に指定されていたかと思います。
東照宮別当「尊寿院」とは
天長山尊寿院神宮寺と号し、又「権現坊」とも称したという。三の丸東照宮の西側にあり、輪王山門跡支配に属している天台宗の寺院。
元和五年藩祖徳川義直は南光坊天海を請じて、東照宮を三の丸に建立し、同年上乗院珍祐を以って別当とし、寛永四年、天海別当所を以って天長山神宮寺と号す。天海を開基となし、珍祐を開山とす。
寺領は東照宮社領千石の内五百二十石あり。宮附の寺院は十二箇寺にのぼり、伊倉町福泉寺、末広町東漸寺、上田町願行寺、東寺町寶泉寺、同町千葉寺、東田町圓教寺、この六寺は御城下六坊又は名古屋六坊と呼ばれ、残る六坊は野田六坊と呼ばれ密蔵院の塔頭であった常林坊、常泉坊、福泉坊、吉祥坊、善明坊、千蔵坊である。
明治三年、尊寿院は東照宮の別当を外され破却された。当時の住職は密蔵院に移住し、前住職である第十六世圓龍は還俗して上月興那と改め東照宮に奉仕した。
現在、春日井市にある密蔵院と尊寿院は非常に深い関係があり、尊寿院の開山である珍祐は密蔵院の三十一世でもあり、以降歴代住職は密蔵院と尊寿院を兼務していたとも。
- 元和五年(1619年):徳川義直、天海を招き東照宮創建。
- 元和六年(1620年):御旅所を若宮八幡社の北に設置。
- 寛永四年(1627年):天長山神宮寺開山
- 元禄元年(1688年):二代藩主徳川光友が重修。
- 明治三年(1870年):別当を廃止。尊寿院破却
- 明治五年(1872年):徳川家霊廟撤去
- 明治五年(1872年):村社に列格。
- 明治八年(1875年):縣社に昇格
- 明治九年(1876年):名古屋鎮台設置に伴い藩校明倫堂跡地に遷座。
- 昭和二十年(1945年):空襲により焼失
- 昭和二八年(1653年):建中寺より高原院廟旧殿を移築し復興。
元和五年(1619年)九月十七日、藩祖義直、城内三の丸天王社の西地を卜し、社殿を造営し家康の神像を奉安する。成瀬正成、竹腰正信を奉行として鎮祭し社領千石を附した。元禄元年(1688年)三月二代藩主光友重修す。寛文四年(1740年)十二月、天明七年(1787年)三月、寛政七年(1795年)修復する。明治五年五月、村社に列格し、同八年八月縣社に昇格する。同九年十月五日、名古屋鎮台創設により今の社地に遷座した。明治八年六月二十日、藩祖義直、同三十一年四月、慶勝を合祀するも大正十三年十一月二十八日、義直、慶勝の二霊神は尾陽神社に移し奉る。建物は創建以来の権現造の本殿、楼門、唐門、透塀、楽所、国宝の建物が並び輪郭の美を極めたが、昭和二十年の空襲で炎上し同二十九年義直公の正室高原院の霊廟を移築し本殿とした。
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」
御祭神
- 徳川家康
御朱印帳の保管に
数年前より非常に集める方が増えた「御朱印」ですが、皆様は御朱印帳はどうやって保管していますか?神社・仏閣を廻って御朱印を受けているとあっという間に御朱印帳の冊数が増えていきますが、そのまま棚などに置いている方が多いのでは?。せっかくお受けした御朱印ですので、日本では古くから着物を始めとして大切なものを保管する為に使われていた「桐箱」に入れて保管した方がよろしいかと思います。
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参拝記
境内入口
名古屋東照宮の境内入口は長島町通に面するように設けられていて、石造灯篭一対、幟立ポール、社号標、青銅製明神鳥居が据えられています。那古野神社の記事の中でも紹介していますが、この東照宮境内入口から真っ直ぐ進んでいくと那古野神社の境内入口に通じています。
名古屋東照宮と那古野神社の境内は同じ境内地の様に見えますが、厳密にいえば東西に境内地が二分されている事になるのですが、参拝している時はあまり感じられない境内配置となっています。
手水舎
木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。三方に腰壁が設けられており、各柱は転びが設けられていない垂直となっているのが特徴でしょうか。
社殿
神門と透塀に囲まれた御垣内の中に鞘堂が覆った本殿が鎮座しています。拝殿は設けられておらず、神門手前に雨よけの屋根が設けられた賽銭箱が置かれた場所で参拝を行う事になります。
元々は大須の萬松寺に建立、大正時代に尾張徳川藩の菩提寺である建中寺に移設された徳川義直の正室「高原院」の霊廟を東照宮本殿として移築したものになります。やはりその規模は小さくなってしまったかもしれませんが、江戸時代前期の建築技術を現代に伝えてくれる貴重な建物には間違いないかと思います。ちなみに、戦前に造られた東照宮の模型が東京大学大学院工学系研究科建築学専攻に所蔵されているそうです。この模型の写真を見ると権現造の本殿だったようです。
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鎮座地を神社で確認
神社名 | 名古屋東照宮 |
鎮座地 | 愛知県名古屋市中区丸の内二丁目三番地三十七(Googlemap) |
最寄駅 | 電車:名古屋市営地下鉄・鶴舞線「丸の内駅」徒歩4分 バス:名古屋市営バス・名駅14系統他「外堀通バス停」徒歩3分 |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。