ヤマトタケル東征伝説 名古屋市緑区 知多半島全部盛り紀行

成海神社(愛知県名古屋市緑区) ヤマトタケル所縁の神社

2020年10月8日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 草薙剣が熱田神宮に戻ってきた朱鳥元年(686年)に建立された延喜式神名帳にも記載されている「成海神社」の紹介です。元々の社殿は鳴海城の城郭があった場所であり、鳴海城築城の際に現在の境内地に遷座されています。ヤマトタケルがこの地で宿営したという伝承から御祭神はヤマトタケルを、配神に宮簀媛命・建稲種命を祀っています。

神社紹介

神社名成海神社
鎮座地愛知県名古屋市緑区鳴海町乙古山八十五番地
御祭神日本武尊(やまとたけるのみこと)
宮簀媛命(みやずひめのみこと)
建稲種命(たけいなだねのみこと)
旧社格県社
創 建朱鳥元年(686年)
神名帳延喜式神名帳 愛智郡 成海神社
尾張国神名帳 正二位 成海天神
境内社神明社
熊野日向社
宝田社
白山社
山神社
道祖祓島社
御井社
日割金刀比羅社
今宮社
氷上社・源大夫社合殿
八幡社
八劔社
住吉社
今宮社
愛宕社
風神社
北野社
子安社
境外社:天神社
東宮稲荷社
だるま塚
例祭日十月十一日
御朱印
H P〇 / Web

参拝日:2020年8月26日

御由緒

 ヤマトタケルが東征からの帰り、あと一日で「火上山/紹介記事」の館にたどり着くというここ鳴海で宿営したといいます。火上山の館には東征から戻ってきたら結婚する約束を交わした「宮簀媛命」がおり、早く会いたいといった歌を詠ったと伝えられています。

奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由不志保尓 和多良牟加毛

そして、翌日、ここ鳴海から海路で火上山に向けて出発していきます。

 愛知県内にある「ヤマトタケルの東征」の伝承地を巡っています。ヤマトタケルは火上山から東征に出立し、東国を平定後、再び火上山に戻ってきてる為、その伝承地は数多く存在しています。そんな伝承地を巡って紹介していこうというのが下の企画です。ゆっくりながら追記していきますので、気長にお付き合いください。

 以上が記紀に書かれているヤマトタケル伝説の一部なのですが、これから時が過ぎ、「尾張国熱田太神宮縁記」によると「天智天皇七年(668年)、熱田神宮より新羅の僧「道行」が草薙剣を盗み出し新羅に向かったとされるが、暴風雨などに遭い日本を抜け出すことが出来ず、自首して死罪に処せられたとされ、この時草薙剣は熱田神宮に戻さず宮中にとどめ置かれた」と記されています。しかしその後、「天武天皇」の病がとなり、この病が神剣の祟りと見なされ、朱鳥元年(686年)6月10日に草薙剣は熱田神宮に戻されたといいます。実に盗み出されてから18年もかかっているんですね。

 天智天皇は西暦645年「乙巳の変」から始まる一連の体制改革である「大化の改新」を推進した中心人物であり、当然「大化」から始まる元号制度を取り入れた当事者でありながら、自らが即位した時には元号は仕様しておらず、先代「斉明天皇」が崩御してから天皇に即位し、崩御するまでの間を「天智天皇〇年」としています。
※「乙巳の変」当時朝廷を仕切っていた蘇我入鹿を中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らが宮中にて暗殺したクーデターになります。

 神剣「草薙剣」が熱田神宮に戻されると、熱田神宮はその記念としてヤマトタケルにゆかりがある十社を創祀します。この十社のひとつがヤマトタケルが宮簀媛命を想い歌を詠んだという伝説が残る鳴海の地に建立した主神にヤマトタケル、配神に宮簀媛命、建稲種命を奉斎した「成海神社」になります。

 成海神社が創祀されてから凡そ730年後、成海神社にとても大きな転換点が訪れます。

 室町幕府三代将軍「足利義満」の時代、家臣「安原宗範」が鳴海に所領を得て館城を築く事になります。この時築かれた館城が「鳴海城/紹介記事」になります。鳴海城は、成海神社の境内に築城される事となり、旧境内から北に位置する現在の境内地のある乙古山に遷座される事になります。

 いくら南北朝時代を挟み朝廷の力が低下したとはいえ、熱田神宮所縁の神社を遷座させてまで居館を築いた「安原宗範」は一体どんな人物だったのでしょうか。居館を築いている事から地頭職として成海を領する事になったのはほぼ間違いないのかなと思うのですが・・・。それとも簡単に遷座させることが出来る程成海神社は衰退していたのでしょうか。

 延喜式神名帳には「愛知郡 成海神社」と記されている式内社であり、尾張国内神名帳には「正二位成海天神」と記されています。江戸時代に書かれた尾張名所図会にも成海神社の挿絵が描かれていて、その境内は非常に広く、数多くの境内社が鎮座している事から、当時から非常に栄えた神社であったことを彷彿とさせてくれます。

「延喜式神名帳」に愛知郡成海神社、「本国帳」に正二位成海天神とあり。朱鳥元年(686年)6月熱田神劍帝都より遷座の時に当神社鎮座と伝う。「熱田御鎮座次第本紀」成海神社は日本武尊東征に縁由の祭神とあり。通称東宮とは熱田神宮の東の宮と由なり。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

参拝記

 鳴海駅から鳴海街道をひたすら北上していきます。庚申坂を登って、下って、まだ登っていく坂道の途中に成海神社が鳴海街道の左手に鎮座しています。駐車場はとても広く、通常時でしたら満車になる事は無いのかなと思います。

社号標

 延喜式神名帳に記載されている神社を指す「式内社」と旧社格である「縣社」が彫られている社号標になります。

 延喜式神名帳に記載されているという「式内社」も延喜式が定められてから千年以上が経過し、よほど大きな大社ではない限り、中々100%確申を持って比定社とされる神社は中々ないそうです。しかしここ成海神社はその社歴、資料などから延喜式神名帳に記載されている「愛知郡成海神社」である事は疑う余地無しとされている神社になるそうです。

一の鳥居

 成海神社の東側に鳴海街道が切り開かれた関係上、一の鳥居は成海街道に向かって東向きに据えられています。昭和四十五年建立の扁額のある明神鳥居になります。熱田神宮に所縁のある神社ですので神明鳥居のがしっくりくる気がするのですが。

旧社号標

 鳴海街道が開通する前までこちら側が成海神社の境内入口だったのか、先ほどの境内入口に据えられている社号標、鳥居より古い、県社に昇格する前の「郷社」時代の社号標と建立年月は調べ忘れてしまいましたが、やはり郷社時代に建立されたであろう神明鳥居が据えられています。

二の鳥居

 東入り又は西入りの境内入口から進んでいくと、北向きに参道が曲がり、その先に二の鳥居が据えられています。その先に社殿が鎮座しているのを鳥居越しに臨むことが出来ます。ここからの眺めを見ていると、尾張名所図会に描かれていた成海神社の境内の様子がそのまま引き継がれているのがよくわかるかと思います。

手水舎

 RC造銅葺四本柱タイプの手水舎になります。年間に訪れる参拝者が多い神社になるようで、手水舎もかなり大きめの造りとなっています。

狛犬

 昭和十四年生まれの子乗り玉乗りの狛犬一対になります。戦前生まれとなりますが、全体の造形がかなり今作られている狛犬に通じるものがある感じです。

社殿

 社務所が建っている場所から見ると高い場所に社殿が見えています。

 入母屋造銅葺妻入りの唐破風の向拝が設けられている拝殿のある社殿になります。社殿がいつ頃造営工事されたのか解りませんが、造りを見ていると比較的新しい感じの拝殿です。

 拝殿の左右に設けられた建物の左右対称の様に設けられているのも特徴でしょうか。

境内社

 成海神社には数多くの境内社が鎮座していますが、写真の稲荷社とだるま塚(これを境内社と呼んでいいのかは不明・・・)以外は、社が何社か横並びに棟続きで作られた相殿に祀られています。

境外社:天神社

 「鳴海城」の紹介記事でも取り上げている成海神社の境外社となる「天神社」になります。この天神社は成海神社の旧境内に鎮座するといいます。成海神社を遷座させて旧境内地に築城した「鳴海城」の守護神として勧請されたのがここ「天神社」であるといいます。現在では成海神社の例祭の際に御旅所となっているそうです。

地図で鎮座地を確認

神社名成海神社
鎮座地愛知県名古屋市緑区鳴海町乙古山八十五番地
最寄駅名古屋鉄道 名古屋本線「鳴海駅」徒歩16分

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

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南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

神社誌作成プロジェクト

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