豊田市

稲荷山隣松寺(愛知県豊田市幸町) 鴛鴨松平家、松平忠吉公、細川三代、内藤清長菩提寺

2020年5月2日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名稲荷山隣松寺
所在地愛知県豊田市幸町隣松寺一二六番地
御本尊阿弥陀如来
宗 派浄土宗鎮西派
創 建承和十年(843年)
札 所法然三河二十五 二十二番札所
御朱印
H P

参拝日:2018年12月19日

沿革・由緒

 寺伝によると、承和十年(843年)、隣松寺が建つ地に配流(流罪)とされた第五十三代淳和天皇の第三皇子である「東山親王国長」公が薨去されます。法号は「隣松院殿一位相国天竜大居士」。甥にあたる第五十四代仁明天皇が菩提を弔うために創建した寺院となり、法号から「隣松寺」と称しています。当初は天台宗の寺院でしたが、明徳年間(1390-94年)に「蓮蔵忠阿」上人が浄土宗に改宗し「玉松山隣松寺」と中興開山しています。

 一説には、仁明天皇が隣松寺を建立する際、弘法大師が刻んだとされる一刀三禮の神像「叱枳尼天」を鎮守として稲荷社を設け祀ったそうです。この稲荷社が現在でも隣松寺の境内に鎮座する稲荷堂になります。
 鎮守社でありながら、松平家とは非常に所縁のある稲荷社になり、徳川家康が関東移封の際、江戸城下に稲荷社を勧請しています。この江戸城下の稲荷社を「三河稲荷神社/公式web」と言います。

POINT

稲荷社と松平家の関係

 松平家八代「松平広忠」は、稲荷社にて安産祈願を行い、無事「竹千代(徳川家康」が生まれたという。
 また、永禄六年(1563年)年、徳川家康が三河一向一揆において一揆側に与した「上野城/紹介記事」城主「酒井将監忠尚」との戦いの際、隣松寺を本陣とし、稲荷社に戦勝祈願を行い、無事勝つことができたとされ、稲荷社の加護を感じた家康は隣松寺の寺号を玉松山から「稲荷山」に改称させ、二十四歳の自己の木像を奉安しています。

 鎌倉時代の承久元年(1219年)に鎌倉幕府討幕の挙兵をした後鳥羽上皇を中心とした朝廷側北条義時率いる幕府側が武力で激突した「承久の乱」が発生します。結果は幕府側が一気呵成に東海・東山・北陸の三街道より京都に攻め込み朝廷側は大敗してしまいます。これにより朝廷側についた守護職や地頭職の武将、公家は領地を没収され、新たに幕府側の武将や公家に再分配されることになります。
 そして、三河国の守護職と額田郡、碧海郡、幡豆郡の地頭職に足利宗家三代「足利義氏」が任命されます。義氏は、地頭職を得た三郡に一族を配置し、強固な足利一門による支配構造が確立し、足利家最大の支持基盤となっていきます。
 この義氏によって三河に呼び寄せられた一族の中に、室町幕府の管領家であり、平成の世では総理大臣細川護熙を輩出している「細川家」の祖「矢田義季」が額田郡細川郷に所領を得ます。義季は本地となった細川の地名から「細川義季」と称するようになります。
 そして、ここ隣松寺には、「細川義季」から二代目「細川俊氏」、三代目「細川公頼」の黎明期の細川三代の菩提寺となり、境内に墓石があります。

足利義康┳義清━義実┳実国(二木氏)
    ┃     ┣義季(細川氏)
    ┃     ┗義宗(戸賀崎氏)
    ┗義兼義氏┳長氏(吉良氏)┳満氏
          ┃       ┗国氏(今川氏)
          ┣泰氏┳家氏(斯波氏)
          ┃  ┣義顕(渋川氏)
          ┃  ┣頼氏家時貞氏尊氏
          ┃  ┗公深(一色氏)
          ┗義継(奥州吉良氏)
       

黄色マーカーは足利宗家を示しています。

 足利義氏から見ると細川義季は叔父甥の関係であり、自らの直系である長氏、義継などと比べると与えられた領地が狭く、御家人いう立場というより足利宗家の被官としての立場だったのではないでしょうか。

 細川氏は四代目細川和氏、弟細川頼春の時、足利尊氏に従軍し軍功を重ね、弟頼春は阿波・伊予・備後・日向・越前の守護に、和氏の嫡子清氏は伊勢国・伊賀国・若狭国守護に任ぜられるなど幕府の有力守護となり、後の三管領の一翼を担うまでになります。

 室町幕府の弱体化が露呈した「応仁の乱」と前後して、応永二十八年(1421年)に松平郷から岩津城に進出した松平家は三代目松平信光の時代に室町幕府政所執事である伊勢氏の被官として応仁の乱では東軍に属し、額田郡、碧海郡を中心に急速に勢力圏を広げていきます。そして、詳細は不明ながら、隣松寺の北800mほどの所に応仁年中に鴛鴨城を築城(又は鴛鴨入道酒井道円の居城を奪取)し、息子「親光」に与え「鴛鴨松平家」が起きます。

 正直な所、松平親光の出生については正確な資料がなく、三代信光の子とも、四代親忠の子とも言われ、更には桜井松平家の松平信定の庶子とする資料もあるくらいです。

 松平親光ー松平親康ー松平親久ー松平忠久と続きますが、永禄八年(1565年)に三代親久が亡くなると、徳川家康は四代忠久に対し、西尾城主であった酒井正親に従うよう命じ、鴛鴨上は廃城となります。
 隣松寺は鴛鴨松平家の菩提寺となっており、「鴛鴨松平家墓所」が隣松寺の境外になりますが設けられています。この墓所には、四代目忠久の娘であり、東条松平家の松平家忠に嫁ぎ、養子として東条松平家を継いだ徳川家康の四男「松平忠吉」の養母となった「於美津の方」の墓も遺言によりこちら建てられています。

 そして、この於美津の方の菩提寺という繋がりなのか、江戸増上寺より分骨された「松平忠吉」の墓石も隣松寺に建立されています。愛知県にはもう一ヶ所忠吉の墓石が建てられていて、千種区の「大雄山性高院/紹介記事」にあります。

 細川三代の墓石と並ぶように、「内藤清長」の墓石も建立されています。内藤清長は松平清康、広忠に仕えた武将であり、隣松寺の南西側に築城された「上野下村城」を居城とし、三河に攻め込んできた織田信秀軍を撃退しています。その後、清長は現在の安城市姫小川町に「姫城」を築城しこちらに移ったとされ、この時に上野下村城は廃城となったのではないでしょうか。三河一向一揆が起こると、清長は一向宗側に与し、姫城と隣の浄土真宗「誓願寺」を拠点として徳川家康軍と対峙しますが、一向宗側は敗れ、清長は幸田町萩町にあった「萩城」にて蟄居処分とされ、そのまま萩城にて没します。清長の墓所は、自らが築いた姫城近くの誓願寺と生まれた上野近くの隣松寺に設けられています。内藤清長の甥は徳川十六神将に数えられる「内藤正成」になります。

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歴史探訪

 「名古屋二十一大師霊場/霊場紹介」の遍路をしている中で、徳川家康四男「松平忠吉」が清州城下に建立したという「大光院」「長久寺」「正覚寺(性高院)」を知り、参拝してく中で、豊田市に松平忠吉の遺骨が分骨され埋葬された墓所があると知りました。
 実はここ隣松寺への参拝は名古屋二十一大師霊場を遍路している2019-20年から一年近く前になる2018年12月に参拝しています。この時は、松平忠吉公の墓石について意識してなかったというのが実状です。しかし、こうして意識して当時撮影した写真を見直し、隣松寺の由緒を調べていると、当サイトを始めて色々巡ってきた場所との繋がりが実は多かったことを解り、より一層、歴史探訪と称して色々な場所を巡っていくことが楽しくなっていきそうな気がします。

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参拝記

 東名高速道路と第二東名・伊勢湾岸自動車道が交差する豊田ジャンクションが北側に臨める場所にある「稲荷山隣松寺」になります。非常に広い境内を有する寺院で、参拝者用の駐車場もかなり広く用意されてます。

境内入口

 参道は山門から本堂に向かって真っすぐ伸びており、山門と本堂の間には鐘楼門が建っています。こういった伽藍配置を見るだけでこの辺りでは巨刹と呼ばれても呼んでもおかしくない感じです。

山門

 切妻瓦葺の仁王門になります。この隣松寺の仁王像は何時ごろ建てられた像なのかわかりませんが、今までみた仁王像の中でもかなり躍動感あふれる仁王像ではないかと思います。

 ただ、時代が新しくなるにつれ、徐々に装飾がゴテゴテしてくるのは、狛犬同様に致し方ない所なんですかねえ。

 山門から鐘楼門の間は、石畳敷きの両側に松が植えられた参道となっていて、一気に寺院の雰囲気が一変します。

稲荷堂

 参道右手には由緒から考察すると現在でも「叱枳尼天」を奉安していると思われる稲荷堂が鎮座しています。稲荷堂の脇に据えられた由緒書きを読むと・・・

・・前略・・明治元年(1868年)、「廃仏毀釈・神仏分離令」が発布され、以来活動を停止し、社殿は参道を背にしておりましたが、平成の再建にあたり旧姿に復することに致しました。

 平成十六年にどうやら稲荷堂を再建したようで、由緒によれば、現在の稲荷堂とは180度反対に向いていたという事なんでしょう。まあ、江戸時代というか昭和初期ぐらいの日本家屋は基礎は置石の上に柱が乗っているだけの造りだったので、極端な事を言えば、人力で浮かせて向きを変える事が出来る訳です。

観音堂

 正確にはこの建物が観音堂なのかは不明だったりするわけですが、何となく全体の雰囲気から観音堂かな?と勝手に推測しております。

鐘楼門

袖壁が設けられている一間一戸の鐘楼門になります。一階、二階部分を見ても全く耐力壁となる壁が存在せず、柱と梁のみで構築されている楼門になります。これで今まで地震に耐えてきている訳ですから、匠の世界はすごいものです。

手水舎・水盤

木像瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。上部にしっかりと貫が設けられており(しかも二段になっています)、かなり耐震性を考慮した手水舎です。

手水舎奥に見えるのは、東門or通用門である薬医門になります。

 薬医門にさらに車と通行用だと思われる石柱門が据えられています。こちらの薬医門もかなり大きく、ここだけみたら山門でも十分通用しそうな造りになっています。

本堂

 寄棟造瓦葺平入の向拝が設けられた本堂になります。少し引いた感じで撮影していますが、本堂もかなり大きな造りになっています。

 浄土宗を開宗した法然上人を巡拝する霊場「法然上人三河二十五霊場」の札所案内板になります。今まで参拝した寺院でこの法然上人二十五霊場の札所になっていた寺院が何ヶ所かあった様な気がします。

 本堂の内陣は朱塗りされたり、なにやら非常にきらびやか感じがします。仏教の宗派によって内陣に装飾されたり色々違いがあるんだろうとは思うのですが、浄土宗の内陣はこんな感じが基本なんですかね。

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境内墓所

 隣松寺の墓所の一角に、「松平忠吉」「細川三代」「内藤清長」の墓石が並んでします。

 こちらの五輪塔が「松平忠吉」の墓石になります。この墓石の前に石灯篭が一基据えられていて竿石部分に「性高院殿憲瑩玄伯大居士」と忠吉の法名が刻まれています。

 こちらの四基の五輪塔が細川三代の墓石になります。細川三代と義李弟義宗の墓石の様です。

 細川氏の墓に並んで据えられている内藤清長の墓石になります。

隣松寺境外鴛鴨松平家墓所

 隣松寺から少し離れ、この集落の鎮守社である「熊野神社」のすぐ隣にある「鴛鴨松平家墓所」になります。他のサイトでも書かれていまっすが、非常に手入れされている場所になります。

 見る限りでは、どの墓石が何代目という事ではないような感じなのですが、どうなんですかね。

 墓所の一番奥には「於美津の方」の墓石があります。遺言によりここ隣松寺に埋葬された「於美津の方」ですが、松平忠吉の菩提を弔うために清州城下に「玄白寺」を建立してています。そして、於美津の方が亡くなった後、その法号から「喜秀山貞祖院玄白寺」と山号と院号を号し、清州越しにより名古屋城下に移設され、現在は名古屋市東区泉三丁目にあります。

 徳川四天王の一人「榊原康正」は隣松寺の近くにある「上野城」周辺にて生まれています。榊原家の出生は仁木家の一族と言われ、伊勢国一志郡榊原に移って榊原を称したとされます。ただいつ頃三河に戻ってきたのかは不明なようです。榊原康正が生まれた当時の榊原家は上野城主「酒井将監忠尚」に仕える身分だったようです。案内板には、榊原康正の祖父榊原清長が上野下村城を築城したと書かれていますが、上野下村城を築城したのは内藤清長とされているので、同じ名前の為混同している可能性もありますね。

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地図で所在地を確認

寺院名稲荷山隣松寺
所在地愛知県豊田市幸町隣松寺一二六番地
最寄駅上郷地域バス(にこにこバス)隣松寺バス停徒歩1分

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