岡崎市東大友町と西大友町に「大友皇子伝説」が伝えられています。壬申の乱により大海人皇子に敗れ、自害したと言われる「大友皇子」が実は自害しておらず三河の地に逃げ延びたという伝説です。
当サイトでもこの伝説についての紹介記事を書いていますが、今回はこの伝説の中で、大友皇子の守り神を祀ったという東大友町に鎮座する神明社を紹介していきたいと思います。
神社紹介
神社名 | 神明社 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市東大友町字堀所三十六番地 |
御祭神 | 天照大御神、大友皇子、保食神、猿田彦命、建御名方命 |
旧社格 | 村社 |
創 建 | 不詳 |
神名帳 | ー |
境内社 | ー |
例祭日 | 十月八日 |
御朱印 | ー |
H P | ー |
参拝日:2020年7月16日
御由緒
今回紹介する岡崎市東大友町に鎮座する「神明社」はこの地に逃げ延びてきた「大友皇子」が竹藪の中に隠れるように作られた館に居するようになってから建立された神社であると言われています。壬申の乱によって当時の都である大津宮に大海人皇子の軍勢が迫ってきた時、大友皇子は身代わりを使って自決したように見せかけ、大津から難波に出てそこから紀伊半島をぐるっと回り込むように船を使い伊勢神宮に向かい、参篭したとされています。伊勢神宮を参篭した後、従者「長谷部信次」の故郷であるという碧海郡矢作周辺に上陸し、現地の人達に暖かく迎え入れられて前述したように大海人皇子の眼を逃れるように竹藪の中の館にて暮らす様になったといいます。
大友皇子に付き添った従者の一人が「長谷部信次」という人物であったと伝えられています。この長谷部氏の故郷が現在の岡崎市矢作町周辺であったと言われています。この長谷部氏・・・三河国国造の地を引く人物では無かったのかと推測しています。
第十二代景行天皇の皇子「五十狭城入彦皇子」が三河国の逆賊を討った後、この地に住み三河の地を納め、亡くなった時「和志取古墳」に埋葬されたという伝承を当サイトでも取り上げています。この五十狭城入彦皇子の後裔が三河国国造となる「長谷部氏」であると言われています。
大友皇子が天皇に即位したのかは議論が分かれる所なのですが、天皇または皇太子である大友皇子の従者として三河国国造「長谷部氏」の一族の者が仕えていてもおかしくないのかなと思う訳です。
当サイトで取り上げていた「五十狭城入彦皇子」と「大友皇子」の歴史の繋がりが生まれたかも?って考えると非常に面白いですね。
そして、この館の近くに自らの守り神(天皇家ですので天照大御神)を祀る神社を創建します。創建時期は不明ですが、672年からそんなに時期は建っていないのではないでしょうか。
大友皇子が亡くなった後、地元の民たちによって大友皇子を祀った「大友神社」が創建されたといいます。下の由緒にも書いていますが、矢作川の氾濫で社殿が流失してしまうなど困難もあったようですが、明治四十一年、大友神社を神明社に合祀しています。現在大友神社の境内跡地には「大友皇子御陵」という石碑が建てられています。
社伝に、白鳳元壬申年(672年)七月、滋賀の粟津にて大海人皇子に敗れた大友皇子が宇頭村下入海の岸に着き、当村に隠れ居住せらる。皇子の守り神を祀る。故に大友村という(正史に大友皇子粟津にて戦死、二十五歳)明治九年一月十七日、村社に列格する。同四十一年十月七日字塚本鎮座、無格社大友神社を合祀した。昭和十一年二月十日、境内神社の社口社、稲荷社、諏訪神社を本社に合祀する。(大友神社塚本九十七番地、宝暦二壬申年(1752年)洪水にて流失、明治十二年九月十五日再興した。)昭和三十四年九月、伊勢湾台風により社殿倒壊、同三十八年十月七日復興する。
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より
歴史探訪
東大友町、西大友町の地名の由来となっている「大友皇子伝説」が息づく地区になります。あくまでも地域の伝承という事なのか、あまり岡崎市としてこの伝説を取り上げていくという状況ではない様です。まずないとは思いますが、古代日本の歴史を大河ドラマなどで取り上げるようになったら状況は変わるかも知れませんがね。
「五十狭城入彦皇子伝説」、「大友皇子伝説」などを通じて、西三河全域が大和朝廷の勢力下に入り、北野廃寺、別郷廃寺、寺領廃寺など大和朝廷による古代寺院の建立が行われていったのではないか。そう考えると、天武天皇の血筋から再び天智天皇の血筋に天皇が即位するようになっていくに中で、三河国の当地の正当性を持たせる為に、意図的に大友皇子伝説が流布された可能性もあるのかなと思えるようになってきました。
参拝記
県道26号線から東の住宅地の中を平行するように走る市道沿いに「神明社」は鎮座しています。国道1号線「暮戸東交差点」を北に進むと先に説明した住宅地の中を走る市道になり神明社にたどり着く事ができるのですが、この交差点、右折レーンがないので下り車線から市道にむけて右折しようとすると(右折禁止ではないようです。)なかなか交通の流れに支障をきたしそうですので、一つ西側にある「暮戸交差点」を北に進み、現在(2020年8月時点)での目印は「ココカラファイン」の北側の路地を入っていくと丁度神明社の北側に出る事が出来るので、こちらで進むと良いかと思います。
境内入口
区画整理が行われて境内がかなり削られたのか、社務所が境内入口からすぐ右手に建てられています。
鳥居前には常設型の幟ポールが設けられています。最近では神社を探す際の一つの目印替わりになる様になってきました。それだけ、祭の度に木製の幟竿を建てる労力が大変だったという事の裏返しでもありますね。
社号標
旧社格である「村社」が彫られた社号標になります。
鳥居
神明鳥居の石鳥居になります。
祓戸
基壇の上に瑞垣が設けられ、更にその外側に注連縄用の忌竹代わりの四柱が設けられている祓戸になります。垣内に植えられている榊の周り以外はコンクリートが敷かれています。
神門・回廊
ここ神明社の社伝配置は少し変わっていて、四脚門による神門とその脇に回廊が設けられています。回廊といっても古代寺院の様な感じで拝殿に繋がっている訳ではなく、例祭などの時の関係者の控え場所の様な建物かなと感じました。
狛犬
昭和五年生まれの子乗り玉乗りの狛犬一対になります。かんりタテガミなどの装飾が盛られていますが、これでも自分から見ると過渡期の作品ですね。
手水舎・水盤
回廊と拝殿に挟まれる様に建っている、木造トタン葺き四本柱タイプの手水舎になります。屋根が軽く作られている為か非常に質素な造りです。
社殿
切妻銅葺平入の土間敷き様式の拝殿になります。非常に小ぶりな拝殿に感じます。
本殿は、近年再建された様でコンクリート製神明造の本殿となっています。
大友皇子丸藪館の跡地
神明社の境内の南側には東大友町公民館が移設されています。実は、移設される前の東大友町公民館の場所に大友皇子が住んでいたという丸藪の館跡地の石碑が建てられていました。公民館が移設された事に伴い、石碑は神明社の境内に移設されています。(色飛びでまったく読めませんね・・・。)
移設される前の旧東大友公民館前に据えられている石碑になります。
地図で鎮座地を確
神社名 | 神明社 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市東大友町堀所三十六番地 |
最寄駅 | 名鉄バス 矢作循環線「暮戸バス停」徒歩5分 |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。