松本山松明院(愛知県岡崎市細川町) 松平乗元菩提寺

寺院情報

寺院名松本山高祖寺松明院
所在地愛知県岡崎市細川町根古屋一二三番地
御本尊阿弥陀如来
宗 派浄土宗
創 建永正七年(1510年)
札 所法然三河霊場 二番札所
御朱印
H P

参拝日:2021年3月3日

沿革・由緒

 応安元年(1369年)三月二十五日、大給郷に仏堂が建立され、その後、長坂氏が大給に居館を構えて治めていきますが、応仁の頃、松平信光が大給城を攻め落として以降、大給郷は松平家は支配する場所になっていきます。信光は三男「親忠」に大給の地を分与しています。親忠はその後安祥の地も与えられ、安祥城を本拠とした事から安祥松平家の祖とも言われている武将です。そして、親忠の長子「松平乗元」に細川と大給の地を分与し、安祥松平家の分家「大給松平家」を起こさせています。

 乗元は、まず細川に入郷し、永正三~七年(1506-10年)にかけて大給城をほぼ現在の姿へと大規模な改修工事を行い、居城を大給城へと移しています。この時、大給の地にあった佛堂の造営工事も行い、乗元が開基、本公大和尚を開山として本松山称名寺を開創しています。

 開山の本公大和尚ですが、一説には乗元の弟であるという伝承もあるようです(松明院境内設置由緒書より)。親忠の息子の中には、知恩院二十五世となる「存牛」がいるので、永正八年(1511年)に信光明寺3世に就く前に松明院の開山を行っていたのかもしれません。ただ、存牛は当時としては長寿となる81歳で亡くなっていますが、岩津町誌では120歳と伝えられていて、かなりの差異が存在してます。

 その後、乗元が亡くなると、戒名である「松明院殿源達社乗譽宗忠祐専大居士」の院号「松明院」へと寺名を改称しています。

 大給松平家四代「松平親乗」の時の天正三年(1575年)二月、滝脇松平家三代「松平乗高」が大給城を夜襲、火を放ち大給城は灰燼に帰し、「松平親乗」は大給城を捨て尾張国に逃げ落ち、松平真乗が大給松平家五代として家督を継いでいます。大給城が焼け落ちてしまった事から、真乗は本城を細川に移しており、天正八年(天正十年という説もあり)に松明院も現在の境内地に移されています。

 徳川家康の関東移封により、大給松平家も関東に移りますが、真乗の二男「松平真次」は知行地として先祖代々の土地である大給、細川を希望した為、関ケ原の合戦後に大給に陣屋を構える六千石の旗本として大給松平家分家「奥殿松平家」として戻ってきています。藩庁を大給から奥殿に移した後、一万石の加増をうけ「奥殿藩」が立藩しています。

 奥殿松平家の墓所は奥殿に構えていた陣屋裏手に設けられていますが、ここ松明院を菩提寺としていました。その後、大給松平家本家も西尾城主として三河の国に戻ってきており、松明院を准菩提寺としていたようです。この事により、文政五年から天保七年(1822-1836年)の期間において、西尾藩主(大給松平家本家)・奥殿藩主(大給松平家分家)が共同で寄進を行い、境内の拡張、堂宇の造営を行っています。

松平乗元の墓

 大給城の記事の中でも紹介していますが、西尾藩主(大給松平家本家)・奥殿藩主(大給松平家分家)が共同での松明院の造営工事の時に大給城址東側に大給松平家祖「松平乗元」の墓所が建立されています。

 Wikipediaを見ていると、銃眼のある土塀が寄進されたという事が書かれていましたが、現在松明院の境内を見ても見当たらないので、すでに作り直された・・・または銃眼部分を埋めたのでしょうか。

 ここ松明院は乗元の菩提寺にはなっていたようですが、二代~四代については足助の寶珠院に埋葬されているなど、元々は大給松平家の菩提寺ではなかったのかなって感じで、更に関東移封後は江戸(現在の港区虎ノ門)にあった「光明山天徳寺」が大給松平家の菩提寺となっていた様で、お国替えを繰り返していた頃も天徳寺に埋葬されていたようですが、近年大給松平家八代「乗久」から十一代「乗佑」までの墓所が松明院に改葬されたようです。

 本堂は慶安元年大給城主松平源次郎公創立庫裏其の他は未詳。開山は本公上人世寿百二十歳という現在まで二十三代である。当山は昔称名寺と申したが松平源次郎公創立せられてから松明院と改称したと公の尊法に松明院殿源達社乗譽宗忠祐専大居士とある。これは三河八代の一人松安院殿の末子であると、本城は東加茂郡大給村である。源治郎(乗元)の子孫左近太夫真乗に至って現地に移したという。

額田郡岩津町誌より

参拝記

 国道248号線の「細川交差点」から東北方面に伸びる市道を進み、地蔵堂のある辻を左折して道なりに進むと松明院が建っていますという非常に分かりくい説明しかできないのですが、細川の集落の矢作川沿い側に立つ寺院になります。地図をしっかり見て訪れてください。

境内入口

 参道の左手に南無阿弥陀仏と彫られた石碑、右側に法然上人三河二十五霊場の二番札所の石碑が建てられています。さらに、右手を見ると池が設けられていてそのほとりには

 三十三観音が一列に並んでいる鞘堂が建っています。境内案内板によると1831年に建てられた観音堂になるそうです。

山門

 袖壁が設けられた薬医門の山門になります。

鐘楼門

 久々に登場した一間一戸の鐘楼門になります。この造りの楼門は何度見ても視覚的に非常に不安定に感じてしまいます。

手水舎

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。手水舎脇の手桶置き場をみると、手水をする場所というよりお墓参りの際に桶に水を汲む場所になってしまている感じですね。

本堂

 寄棟造瓦葺平入の向拝と濡れ縁が設けられている本堂になります。元文六年(1741年)に再建された本堂らしいのですが、瓦も吹き替えられ、壁も塗りなおされている様で築280年の建物には見えませんね。

三祖堂

 浄土宗開祖法然上人、鎮西派開祖鎮西上人、松明院開山隣誉上人の像が奉安されている三祖堂です。本堂の脇に開祖像などが奉安されている寺院は多いですが、こうして開祖像をまとめた御堂はあまり見かけないですね。

大給松平家の墓石?

 三祖堂の脇に据えられている観音堂の裏手に三基の墓石があります。ネットなどで松明院を調べていると、この墓石が大給松平家関連の墓石であると紹介されているサイトを見かけました。もしかしたら東京の光明山天徳寺から改葬された時に松明院に移された墓石なのかな。

鎮守社

 現在では松明院の境内とは市道を挟んで反対側に鎮座している金比羅堂になります。この社のすぐ隣には松明院の駐車場になっているなど、確証はありませんが、松明院の鎮守社として奉安されていた金比羅堂だろうと思います。御堂の中は、厨子の扉が開いていて、金比羅王の像が奉安されていました。・・・金比羅王・・・他では中々見かけない像ですね。

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所在地を地図で確認

寺院名松本山高祖寺松明院
所在地愛知県岡崎市細川町根古屋一二三番地
最寄駅名鉄バス奥殿陣屋行「細川バス停」徒歩10分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある”村の鎮守の神様”と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな”知多四国霊場”を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

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