能見山松應寺(愛知県岡崎市松本町) 三河観音霊場五番札所/岡崎三十六地蔵十五番札所

寺院情報

寺院名能見山瑞雲院松應寺
所在地愛知県岡崎市松本町四十二番地
御本尊阿弥陀如来
宗 派浄土宗
創 建永禄三年(1560年)
札 所三河観音霊場 五番札所
岡崎三十六地蔵 十五番札所
御朱印
H P

参拝日:2019年5月29日
再訪日:2020年11月18日

沿革・由緒

 徳川家康の父「松平広忠」が天文十八年(1549年)三月に死亡し、亡骸は密かに岡崎城忠から大林寺に運び出された後、荼毘に付され能見ヶ原に埋葬されています。昭和四年に書かれた岡崎市史には書かれていなかったのですが、松應寺の由緒を調べると能見ヶ原にあった「月光庵」という堂宇に埋葬されたと書かれています。

 松平広忠の死因は諸説あり、一番広く広まっている説は家臣である「岩松八弥」によって殺害されたとするもので、皆様も一度は聞いた事があるのではないかと思います。ただ、病死とするもの、一揆により殺害されたとするものと文献により死因は様々なであり特定できていないのが実状の様です。
 岩松八弥の刺殺であるとする説では、広忠をわき差しで両断(または刺殺)した岩松八弥は、異変を聞きつけた「植村新六郎」によって討ち取られたとされていますが、実はこの「植村新六郎」は松平清康が守山の地で家臣「阿部正豊」によって断殺された『森山崩れ』において阿部正豊を討取った「植村新六郎」と同一人物であると言われています。

 松平広忠の嫡子である竹千代(後の徳川家康)が織田信秀方の人質となっている現状で、松平広忠が亡くなってしまった事で一番焦ったのは「今川義元」ではないかと思います。いわば松平家を属国として自らの勢力圏に取り込みつつある中で、広忠が死に、嫡子は敵方にいるとなると三河を領有化する大義名分がなくなると同時に松平家全体が主君がとらわれている織田方に寝返る可能性も出てきてしまう事になります。その為、義元はこの状況を打破する為に、広忠が死亡した天文十八年(1549年)三月と同月中に大原雪斎を総大将とする大軍を派兵、岡崎にて松平軍を含めた軍勢に組み直すと、織田信秀の長子「織田信広」が城主を勤める安祥城を奪還に向けて出陣します。しかしこの時は、松平軍の主将「松平忠高」が討ち死にするなどの被害を受け、撤退しています。
 義元はさらに天文十八年九月にも安祥城攻略にむけて大原雪斎を総大将とする軍勢を出陣させています。親織田派であった吉良氏の西条城を落とすなど周囲の援軍を遮断しながら安祥城に向かい、織田家家臣平田政秀の援軍あり織田勢は激しく抵抗しますが安祥城は落城。城主織田信広を生け捕りする事に成功します。
 安祥城攻略から二ヶ月後の天文十八年十一月、竹千代と織田信広の人質交換が行われます。交換の場所になったのは尾張四観音で笠寺観音の名で知られている「天林山笠覆寺/紹介記事」になります。笠覆寺の境内には人質交換の石碑が置かれています。

 人質交換により竹千代は松平家に戻る事ができるかと思いきや、今川義元は松平家を臣従させる為に竹千代を駿府城下に移すことにします。この駿府に移動する途中に竹千代は父広忠の亡骸が埋葬されている月光庵に立ち寄り、墳丘の上に松を手植えしたと伝えられています。

 永禄三年(1560年)桶狭間の合戦において今川義元が討ち死にし、元服していた松平元康は岡崎城への帰還を果します。そして父広忠が眠る場所に寺院の建立を命じ、幼少期に駿府に向かう途中に立ち寄った時に墳丘に植えた松が大きく茂っている成長を見て「我が祈念に応ずる松なり」として建立した寺院を「松應寺」と名付けたとしています。

 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開幕した後の慶長十年(1605年)に父広忠の五十七回忌に伴い大造営工事、さらに三代将軍徳川家光の寛永十年(1633年)には「松平正綱」に命じて造営工事を行われています。

(旧)岡崎市史に描かれている松應寺の絵地図になります。本堂裏手には松平広忠の霊廟が描かれています。総門を潜ると塔頭が建ち並んでいる様子もみてとれますね。

 松應寺は、瑞雲院と曰ひ、能見山と号す。松本町四十二番地に在り。境内二千五百六十八坪三合四勺を有す。京都知恩院の末寺である。
 開山は重蓮隣誉月光和尚(元亀三年七月八日没す)にして、永禄三年に徳川家康が父広忠菩提の為に創立せられたものである。
 文禄四年十月十一日岡崎城主田中兵部大輔吉政、寺廻り畠寄進があり、慶長七年六月十四日徳川家康朱印百石を賜うた。同十年広忠五十七回忌に當って、廟所・松・石垣・玉垣・鳥居・拝殿・門・井に霊屋・本堂・方丈・庫裏・其外塔頭に至るまで建立があった。棟札寫に、奉行三浦勝兵衛直正、材木方洞意入道、菅沼伊賀守、受学入道、彦坂九兵衛、浅井金右衛門、三宅岩木、右者當国鳳来寺河井檀度山より材木出御役人也、御手傳岡崎城主本多豊後守五万石、西尾城主本多縫殿助二万石とある。
 慶長十七年正月二十六日に徳川家康が参詣があった。
 元和九年二代将軍秀忠、三代将軍家光、當寺に参詣あり。
 寛永十年将軍家光、佛殿・御廟・方丈・鐘楼・三門・惣門等を造立せらる。奉行は松平右衛門大夫正綱である。其後、萬治三年(奉行丸茂兵左衛門利忠、横山勘右衛門)、天和三年(奉行西尾城主土井式部少輔利忠)、元禄十年(奉行岡崎城主水野豊前守忠盈)等に修復があった。
・・・(中略)・・・
本尊は木造阿弥陀如来坐像(聖徳太子作と傳ふ)である。現今の堂宇に本堂、御霊屋、玄関、方丈、土蔵、鎮守堂、太子堂、庫裏、鐘楼、三門等がある。御霊屋には成烈院殿及び東照宮の位牌を奉安し、鎮守堂には八幡宮を祀り、太子堂には聖徳太子を祀る。此太子堂は文化二年十一月十五日當寺二十四世秀存の創立にしてもとは能見町庚申堂の地に在りしが、明治十三年三月十一日今の地に移転した。
・・・(中略)・・・
もと當寺の塔頭に善入院、宗慶院、林塔庵、傳宗庵、浄誓院、西光院、貞照院、春了庵の八宇ありしが、善入院、浄誓院、西光院を除くの外は其跡絶えて久しく今に於て其事跡の見るべきものがない。西光院は梅築山と号し築山殿菩提の為本多豊後守広孝の弟広信が建立したもので、明治維新後尾州中島郡稲沢町に移転した。今福寿町地蔵に傍らに榎の大木があり、これを築山殿の墓標なりと傳へて居る。

昭和四年発刊岡崎市史第七巻より

霊場をいく

 岡崎三十六地蔵霊場十四番札所の「浄誓院(松本観音)」の境内から市道を挟んですぐ北側には独特なアーケード街で岡崎市民には非常に知られている「能見山松應寺」の参道入口があります。どういった経緯で松應寺の参道がアーケード街になったのかはよくわかりませんが、そのレトロ的なアーケード街もある種観光地となり始めている感じですかね。

 この記事を書いている時点でスタンプラリーに使うスタンプ台などが設置されているのかは不明ですが、現在でも「おかまいり」の公式サイトが稼働している(H3.4.29現在)ので、まだスタンプラリーは実施されているのかも?。巡ってみたいと思った方は、まだスタンプラリーがやっているかどうかを岡崎市観光協会に問い合わせる事をお勧めします。

 中央の切妻型のアーケードの奥に松應寺の本堂が見える参道入口になります。正直、アーケードの屋根に松應寺の看板が掲げられているかといえ、アーケードの存在を知らないと松應寺ってどこにあるの?って迷ってしまいそうですね。

 この何とも言えないノスタルジーを感じてしまうアーケードを懐かしいと思ってしまう自分は”おっさん”なのでしょう。平日はどうしてもシャッター通りの雰囲気満載になってしまいますが、土日は結構なお店が営業しているようです。このアーケード街は『松應寺横丁』と呼ぶそうです。

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浄土宗は赤地に文字ぬきのスタンプ!

参拝記

 本堂正面から真っ直ぐ南に延びている参道に木製のアーケードがかぶされてている非常に独特な雰囲気の松應寺の参道入口になります。

本堂

 参道の正面に建っている入母屋造瓦葺妻入りの向拝が設けられた本堂になります。昭和二十年の岡崎空襲により松應寺も被災。後に紹介しますが太子堂と広忠の御廟所のみを残してすべて灰燼に帰してしまいます。この本堂も戦後に再建されたものになりますが、江戸幕府によって造営が行われた焼失前の本堂と比べると正直かなり規模は小さくなってしまったのかなとはおもうのですが。

 たぶん、元々の本堂の雨どいが繋がっていた水受石だろうと思うのですが、周囲がかなり破損しています。本堂の火災によって熱によってわれてしまったのかな?と勝手に想像しています。

 おかまいりスタンプラリーのスタンプ台は本堂前に置かれています。向拝の下の置かれていてしっかりとスタンプ押す事ができる台があって、まさに理想的なスタンプ台ですね。

弘法堂

 アーケード街の途中に脇に伸びる商店街があって、その突き当りには空襲から被害の逃れた「弘法堂」が建っています。

 建立年は不明ですが、聖徳太子像が奉安されている太子堂になります。寺伝では松應寺の本尊は阿弥陀如来像は聖徳太子作と伝えられていたりします。この縁でここに太子像が祀られたのかは不明ですけが、三河地方には元々根強い聖徳太子信仰があったとも言われているのも関係しているかもしれませんね。

鐘突き堂

 太平洋戦争時の金属供出の際、文化的価値が高いとして供出を逃れたという梵鐘が吊り下げられている鐘突き堂になります。鐘突き堂自体は岡崎空襲の時に焼け落ちてしまっていますが、梵鐘は大きな被害もなく、昭和五十五年に鐘突き堂が再建されて再び吊り下げられたそうです。
 松應寺の鐘突き堂は比較的大規模な鐘突き堂によく見られる様な四脚に支え柱がそえられている造りになっています。そして上下に太い梁が設けられていてどっしりとした印象を受けます。

松平広忠御廟所

 松平広忠を埋葬したとされる墳丘を鳥居と瑞垣が設けられている御霊所となります。松應寺の寺名の由来となった墳丘上に植えられた徳川家康の御手植えの松は枯死してしまい、現在は次世代の松が植えられています。

 御霊所を取り囲むように土塀が設けられています。塀には漆喰が塗られていたと思いますがほぼ全体的に崩れ落ちてしまいなかの土が丸見えになっていて、全体的にもかなり風化が進んでいます。

 このため、令和になって松應寺では三年計画で御霊所の整備事業が行われていて土塀も作り直しを行う予定のようです。

 自分が最初松應寺を訪れた令和元年五月の時には、上記の様に新たに作る土塀の耐久試験用の試作が置かれていました。

 紹介する順番がなんかおかしいですが、御霊所に通じる薬医門になります。元々御霊所には御霊屋として付随する建物・・・造り的には神社建築の拝殿の様な建物か?・・が建てられていたそうです。

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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、”るるぶ”を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

所在地を地図で確認

寺院名能見山瑞雲院松應寺
所在地愛知県岡崎市松本町四十二番地
最寄駅名鉄バス「能見町バス停」徒歩2分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある”村の鎮守の神様”と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな”知多四国霊場”を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

仏像とお寺の解剖図鑑
仏像とお寺の解剖図鑑

少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。

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