神々の伝承

高倉天皇

2018年3月1日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

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ポイント

平清盛による平家政権の絶頂期に即位した第八十代天皇。皇后は平清盛の娘である平徳子。父である後白河院と平家との権力争いに悩まされ続けた天道とされる。

高倉天皇とは

 平安時代末期の平家絶頂期に即位した第八十代天皇。后は、平清盛の娘、徳子(建礼門院)。徳子との間に源平最終決戦地壇ノ浦の戦いで入水し崩御した安徳天皇が生まれている。

 ・第七十七代後白河天皇の第七皇子として生誕。
 ・母は皇太后平滋子(建春門院)

高倉天皇データ

生年応保元年九月三日(1161年9月23日)
没年治承五年一月十四日(1181年1月30日)
即位仁安三年二月十九日(1168年4月9日)
退位治承四年二月二十一日(1180年3月18日)
父親後白河天皇
母親平滋子
后妃平徳子
藤原殖子
近衛通子
堀河豊子
平範子
藤原公子
藤原氏(小督局)

 後白河上皇と平滋子の間に第七皇子として生まれました。その時の天皇は、後白河上皇の第一王子だった二条天皇です。この二条天皇と後白河上皇の間では、壮絶な権力争いが繰り広げられていました。まぁ、この辺りは、天皇、上皇本人の意向より、この両者の後ろ盾となる当時摂関家の意向、思惑、野心が周囲を巻き込んでいたんだとは思いますが・・・。

 そんな中、1160年に保治の乱と呼ばれる政変が起きます

 その保治の乱の最大の功労者だったのが平清盛でした。清盛は、政変の後も天皇にも上皇にも組むことなく中立的な立場でしたが、二条天皇崩御後、後白河天皇に接近します。

 二条天皇の皇子だった六条天皇に譲位を求め、叔父である憲仁親王が高倉天皇として即位します。その後1172年、11歳で平清盛の娘"平徳子"を后に迎えます。時に徳子22歳。

 徳子との間には中々子供が恵まれ無い中、1176年に、母親である平滋子(建春門院)が亡くなります。この頃には、平家の権力が絶頂期であった頃であり、後白河法皇との関係に軋轢が生じ始めていた頃であり、何とか上手く政治が回っていたのは、建春門院が調整役として立ち回っていたからだと言われています。

 そんなきな臭い時の中、1178年、徳子は、後の安徳天皇になる皇子を懐妊します。

 1179年、叔父の平清盛がクーデター(治承三年の政変)を起こし、後白河法皇を幽閉してしまいます。さらに、1180年にはまだ1歳4か月の安徳天皇に譲位を譲位し、いわば清盛傀儡の院政を始めます。娘を天皇に嫁がせて、外戚として権力を保持していくというのは、平安中期に絶大な権力を誇った藤原氏、特に藤原道長をほうふつさせますが、一代限りの外戚では、権力が長続きしません。しかも、ただでさえ急激な権力拡大で政敵が多いにもかかわらず、武力を伴った権力掌握を行ってしまっては、反平家勢力が結集してしまう事になってしまいます。

 反平家の狼煙が全国各地で上がり始める中、1181年1月30日、高倉上皇が崩御してしまいます。清盛は政権の維持を目論んで徳子を後白河法皇への後宮にという案が出てきますが、両者の拒絶で実現せず、その後僅か2か月後には平清盛も亡くなってしまいます。

 高倉上皇が崩御して僅か2年後には、平家は源義仲に追われるように都落ちします。その時、安徳天皇、徳子、徳子の母親である時子(二位尼(にいのあま)と称されます。)も都を離れ西国に落ちていきます。そして、1185年の壇之浦の合戦を迎えます。

 本人が望む、望まざる関係なく、政変に翻弄された天皇の一人だと思います。僅か6歳の我が子安徳天皇入水崩御を知らずに済んだのはあるいみ良かったのかなとは思いますが、逆に高倉上皇が健在だったらどうなっていたのかな?とも想像してしまいます。

建春門院とは?

 後白河天皇が譲位し上皇になった後に嫁いたのが、平清盛の奥さんのお姉さんである平滋子です。嫁いだというか、宮廷で働いていたら、後白河上皇の目に留まって寵愛を受けるようになったという事なんですが・・・。この辺りは現代の感覚ではなかなか起きない事ですね。
 当時の宮廷は、天皇家、摂関家、有力武将などを巻き込んでの血で血を洗う権力争いの真っ只中ででした。そしてそんな中、滋子は後の高倉天皇となる第七皇子を出産します。
 第七王子(憲仁親王)が皇太子となると、滋子の従三位の神位に叙せられ、後白河上皇の女御となりました。その後、後白河上皇が出家し院政を始め、後白河法皇となった後も、平清盛との調整役として機能していたのが滋子(このころには、建春門院の院号を宣下されています。)でしたが、1176年、死去。その直前には、後白河院の50歳の賀のために法住寺殿において盛大な式典が催され平家の絶頂を世に示すかのように、後白河院・滋子・高倉帝・徳子上西門院の皇族を始め、平氏一門・公卿が勢揃いしたこの式典を開催しています。
 が、建春門院が亡くなった直後から、後白河法皇と平清盛の権力闘争が始まっていきます。

高倉天皇が祀られている神社

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