寺津町・巨海町・刈宿町の散策中に見つけたもの

長縄町の稲荷神社の由来や近くの清康公仮葬地の伝承から、大河内家宗家が収めていた寺津地区の散策をすることに。

寺津地区を散策していると、新たな歴史の繋がりを感じることができましたし、次に訪れる場所の候補も何件か見つかりましたが、その前に寺津地区を散策して見つけた色々なものを紹介していこうと思います。

寺津村道路元標

西尾市に合併される前の、寺津村時代の道路の起点となる道路元標になります。

丁度、国道247号線の寺津町交差点の角に置かれており、まさにここが寺津の道路の中心地になります。

街角の大師堂

自分が住んでいる岡崎市の福岡町・上地町ではまず見かけることがないのが今から紹介する弘法大師象が安置されている大師堂になります。

たぶん、見かけたのが一ヶ所だけだったなら特に気にも留めてなかったと思うのですが、寺津地区を2時間ほど散策しただけでかなりの大師堂に出会ったので、ここで見かけた大師堂を紹介していきます。

もっと注意深く見ていけばもっと出会えたかも。

現在、この三河地方で行われている三河新四国八十八ヶ所は昭和40年に再興された霊場であり、それ以前の霊場は旧四国と呼ばれたりするそうなのですが、その現在の三河新四国では、札所に選ばれている寺津地区の寺院は一ヶ所もありません。しかし、今回の寺津散策で紹介している三河海岸大師では八か所の寺院が札所に選ばれており、さらに再興前の三河(旧)新四国でも、寺津村の寺院の何ヶ所かが札所に選ばれている様です。

どういった基準で札所を選定しているのかはわからないのですが、確かに寺津地区には明治期・・・もしかしたらもっと前から大師信仰が根付いている地域なんだと思います。

赤観音

巨海町の八剱神社からまっすぐ南に向かった所に突然露わえる赤地蔵になります。

裏道にひっそりと佇む知る人ぞ知ると言われている赤地蔵様だそうです。ネットが普及して、この真っ赤なお地蔵様というのがインパクトがある為か徐々に認知度が広がってきているっぽく、結構検索していると写真や記事に行き当たりますね。

向かって右側のお地蔵様は延命赤地蔵尊といい、おねしょが治る御利益があるといわれているそうですよ。

後の塀などを見てると、現在でも赤く塗る作業は行われている様に見えます。将来も赤いお地蔵様が見守ってくれるんでしょうね。

長寿尼寺跡

幡豆郡誌によると、

吉良義氏の母は北条時政の女、源頼朝の室政子の妹なり。承久年中死し芳名を本成大姉と称す。義氏三河国守護となり西尾城に入るや母の為に長寿寺(後に長寿尼寺)を造営す。毅然たる大伽藍なりしが吉良氏衰えて暫く荒廃し一小庵となり。寺領六石の朱印を附せられたり。宝暦の頃、この寺に安昌という尼僧あり。食物を口にせず不食尼と称し遠近から歸依を得たりという。

とあります。が、寺津村誌では、

鎌倉時代後期の1324年、吉良満氏が母の志を報じて創建し、当時は大伽藍を構えて長寿寺と呼ばれたとあります。

ただ、創建年代が正しければ、滿氏は1285年に鎌倉幕府の権力闘争(霜月騒動)で自害しているので、滿氏が創建したのではなく、滿氏の子である吉良貞義の創建かなと思います。そして満氏の母を”覚了院本成大姉”と称します。

以前紹介した願成寺の創建をしたのが滿氏の母親であり、長氏の妻であった覚了院本成大姉です。


願成寺


幡豆郡誌と寺津孫誌の間では約100年の時代の誤差が生じています。どちらが正しいのかは不明ですが、何にせよ吉良氏が栄えていた頃はかなりの大伽藍だったという事ですね。

今では、廃寺となり、寺号である”長寿尼寺”も同じ西尾市の西幡豆町にある”長寿尼寺”に譲られたそうですが、こちらの長寿尼寺も廃寺っぽいです。

そんな歴史のある長寿尼寺は寺津小学校の南側に鎮座していたと言われています。現在では跡地と思われる場所に数基の墓が残っています。

この正面のいずれかの宝篋印塔の一つが吉良滿氏の母”覚了院本成大姉”の物だと言われています。元々はもう少し広い場所に建っていたんだろうなあと思うのですが、現在では写真の様にコンクリートブロックに囲まれた一角にひっそりと建っています。

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