
寺院情報
寺院名 | 法輪山 円観寺 |
所在地 | 愛知県知多郡武豊町富貴字郷北九十七番地 |
御本尊 | 阿弥陀仏 |
宗 派 | 天台宗山門派 |
創 建 | 室町時代 |
札 所 | 知多四国霊場 二十五番札所 |
御朱印 | 〇 |
H P | - |
参拝日:2018年9月26日
弘法大師八十八ヶ所霊場 | |||
=尾張地方= | ●知多四国 | ●四国直伝弘法 | 知多本四国移 |
尾張新四国 | 大名古屋八十八 | ||
=三河地方= | ●三河新四国 | ●三河准四国 | (旧)三河新四国 |
三河海岸大師 | 東三新四国 | 西加茂北部新四国 | |
弘法大師二十一ヶ所霊場 | |||
=尾張地方= | ●名古屋廿一 | ●西春北部廿一 | ●御母公廿一 |
扶桑廿一 | 光明廿一 | 岩倉廿一 | 布袋廿一 |
古知野廿一 | 常滑郷廿一 | 大野谷廿一 | 嶋崎廿一 |
知多西浦廿一 | |||
=三河地方= | ●豊鳳廿一 | 三河海岸廿一 | 渥美廿一 |
弘法大師霊場(三弘法) | |||
=尾張地方= | ●名古屋三弘法 | 尾張三弘法 | 大名古屋三弘法 |
扶桑三弘法 | 布袋三弘法 | 丹陽三弘法 | 知多三弘法 |
=三河地方= | ●三河三弘法 | 知立三弘法 | 額田三弘法 |
東三河三弘法 |
●がついている所は"納経帳"が用意されている霊場を示しています。
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沿革・由緒
室町時代の応仁の乱が起こるまで知多半島は「一色氏」の支配下にありました。細川氏との政権争いで三河守護を外された事が発端だったのか、一色氏は応仁の乱に於いて西軍(山名側)に与した為、応仁の乱終結後、知多半島の守護代も外されてしまいます。
全盛期の一色氏は、丹後国、若狭国、三河国守護に加え尾張国の海東郡、知多郡の部分守護職、さらに伊勢国の伊勢周辺の守護職を兼任していました。特に、伊勢湾、三河湾を掌握できる三河国守護、海東郡、知多郡部分守護、伊勢国伊勢部分守護がもたらす莫大な利権は一色氏が四職として幕政に参加する為には必要不可欠な物だったと想像できます。ただいつの世においても当主が早死にすると、後継者による内部抗争が勃発し御家が衰退しますが、一色氏も例外ではなく、内部抗争により急速に力が失われていきます。この辺りは足利将軍家との絡みもあるのですが、尾張国海東郡、三河国の守護職を解任され、一色氏を支えていた経済基盤が崩壊した事も衰退の一因かなと思います。
一色氏という重石が外れた知多半島では、各地の豪族たちが知多半島の支配権を巡って乱立していく事になります。渥美半島から進出してきた「戸田氏」が「河和城」を築城し師崎から河和にかけての南知多地域を制圧します。知多半島の付け根部では「緒川城」を中心として刈谷にも進出していた「水野氏」が、知多半島の伊勢湾側は一色氏の家臣で「大野城」を居城とした「佐治氏」が、そして現在の半田から武豊にかけては「長尾城」を居城とした「岩田氏」が台頭してきます。その他にもいつくかの小さな勢力が存在していたと言います。まさに知多半島は戦国時代の日本の縮図ともいえるような状態だったようです。
円観寺が建つ場所を「富貴」と云い、「富」の字が示す様にこの地は港町として莫大な「富」を生み出す場所だったと言われています。そこに岩田氏は支城となる「富貴城」を築城します。この後、富貴城は廃城となる訳ですが、この辺りは「富貴城/紹介記事」を参照してください。

富貴城の廃城後には、一説には「富貴城の北側あった光明寺の一坊だった」と言われる(光明寺が廃寺となってしまっている為、この辺りはよくわかりません。)「白雲山円光坊」が天正二年(1574年)に移築され、寺号も現在の「法輪山円観寺」と改称しています。その後、円観寺の境内に「白山神社/紹介記事」が遷座され、円観寺が別当として白山神社の祭祀を行っていく事になります。
明治維新により明治政府が樹立すると、神仏分離令が発令され、円観寺は白山神社の別当をはずれ、境内の東側を白山神社に分筆し、現在の様な円観寺と白山神社が並び立つ様な形になっていきます。
室町時代の創建と伝えられ、当初は白雲山円光坊と称した。天正二年(1574年)白山城跡の現在地に移り、現在の山号寺名に改称した。中興の栄貴法印より現代まで十九代、それ以前は不詳だという。
「知多四国めぐり」より
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知多四国霊場を行く
平成三十年(2018年)の記録的な猛暑と、八月中は個人的な所用により、約二ヶ月ぶりの知多四国霊場巡礼となります。さすがに九月も下旬となると、もう暑くて死にそうなんてこともなく、これくらいの気候なら巡礼できそうだという事で、以前巡礼をすっ飛ばしてしまった、知多四国霊場二十五番札所「法輪山 円観寺」から巡礼六日目をスタートしていきます。
参拝記
国道247号線から「富貴駅東」交差点を左折し、名鉄河和駅「富貴駅」の駅前にある踏切を越えて二本目の路地(上記ストリートビューの交差点)を右折していくと、突き当りに「法輪山 円観寺」が鎮座しています。
駐車場は、円観寺の前に用意されているので、そのまま車を駐車場に止めて参拝できます。
境内入口
山門に通じる石段は幅が広くとられています。
寺号標は石段を上った先に立っていて、階段向かって左点前に建っている石柱は知多四国霊場札所案内の石柱になります。
札所案内石柱
知多四国霊場二十五番札所を示す案内石柱になります。
石柱の状態からなかなか年月を重ねた石柱であることがわかりますね。
社号標
天台宗 法輪山 円観寺と彫られた寺号標になります。
宗派、山号、寺号と参拝した時に確認したい事がすべて彫られていて助かります。
側面には、知多四国霊場二十五番札所と彫られています。
山門
袖壁が設けられた八脚門になります。
自分が今まで見てきた八脚門の中では小ぶりな部類に入るかと思います。
本堂
寄棟造瓦葺平入で唐破風の向拝が設けられた本尊である阿弥陀仏が安置されている本堂になります。
向拝の部分だけ軒を伸ばしている瓦葺の優雅さを感じられる本堂もいいんですが、ここの本堂の様に、唐破風で向拝を設けた本堂は重厚感を感じられますね。
大師堂
入母屋造瓦葺妻入りの向拝が設けられた大師堂になります。
こちらの大師堂では、正面中央に蝋燭を捧げる蝋燭立てが置かれています。線香台と重なり合うように蝋燭台が置かれている所は珍しいかもしれませんね。
大師堂の中には、自然石に大師様を描いた大師像が数多く並べられていて、印象的な雰囲気を醸し出してます。
中央には知多四国霊場の大師像が安置されています。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
金比羅堂(護摩堂)
本堂と大師堂の間には、金比羅大権現が安置されている金毘羅堂があります。
中には、秘仏とされる金毘羅大権現が中央に安置されていて、脇には弘吉布袋像、不動明王、薬師如来が安置されています。
こちらの金比羅堂には・・・
こんな感じで鳥居が設けられています。
金比羅大権現と書かれた扁額が掲げられた明神鳥居となります。
仏教に正中という考えがあるかどうかはわからないのですが、金比羅堂と大師堂、あとから紹介します観音堂は向いている方向が90度異なり、神道でいうところの正中が交わる様な形で鳥居が設けられています。
鳥居が無かったら別段なにも感じなかったのですが、正直境内の隅で人が潜ることがないであろう場所に鳥居が設けられてしまった事で神道をかじっている自分にとって違和感を感じてしまう配置になっていますね。
観音堂
西国三十三観音の移観音像と中央に金色に輝く観音像が安置されていて、ぼけ封じ観音として安置されているようです。
御朱印
参拝を終えて
この辺りは、富貴城址のすぐ近くまで昔は海が迫っていて、三河湾、伊勢湾などとの海運港として非常に栄えて、富を得ていた事から富貴という地名になったんだとか。渥美半島、知多半島を領有していた頃の戸田氏は非常に有力な領主だったんでしょうね。
後の徳川家康となる竹千代が今川方に人質として駿府に送る為に犬飼湊(現在の蒲郡)から海路で駿府に向かう際、その案内人として戸田氏が随行していたのですが、戸田氏が今川を裏切り織田氏に竹千代を送り届けてしまいます。今川氏の逆鱗に触れた戸田氏は、今川氏に本城であった田原城を攻められ滅亡してしまいます。そして、本家筋を失った知多半島に進出していた河和戸田氏は前述の様に富貴城を失い、結局水野氏と講和し言わば水野氏の傘下に組み込まれていく事になります。
そんな知多半島をめぐる戦国史の一端を感じることができる寺院なのかなと思います。
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所在地を地図で確認
寺院名 | 法輪山 円観寺 |
所在地 | 愛知県知多郡武豊町富貴字郷北九十七番地 |
最寄駅 | 名古屋鉄道河和線「富貴駅」徒歩4分 |
次の目的地は

知多四国霊場二十五番札所「法輪山 円観寺」を後にして、すぐ隣に鎮座する「白山神社/紹介記事」を参拝していきます。