知多半島全部盛り紀行

知多半島遍路・巡礼・参拝・探訪全部盛り 1日目その1

2020年9月28日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

善照寺砦址

愛知県名古屋市緑区鳴海町砦地内 GoogleMap

 今川義元の手に落ちた「鳴海城」を包囲する為に築かれた砦の一つになります。また、桶狭間の合戦の際、清州城から熱田を経由して急行した織田信長軍が入った砦になります。砦は丘陵上に建っており、桶狭間から見て反対側の斜面に兵士を配置し、織田軍が迎撃の為出陣した事を隠したといいます。
 ここ善照寺砦には織田家筆頭家老「佐久間信盛」が配置されていたといい、鳴海城包囲網の拠点となる砦であったことがわかります。

 善照砦址も当然の如く都市化、宅地化が行われ、遺構などは全く残っていません。砦址には名古屋市が設置した小さな案内看板が一基据えられてるだけでした。むしろ、鳴海絞開祖の三浦氏の石碑のが大きかったですね。

 「善照寺砦址」から少し北に行った所に「名鉄自動車学校」があります。この自動車学校は、日本で最初のプロ野球の試合が行われた「鳴海球場」の跡地を再利用している事で有名です。現在でも、一部ですが当時のスタンドが残されていて、ここに野球場があった事をアピールしている様に感じます。

鳴海球場跡

愛知県名古屋市緑区鳴海町文木地内 GoogleMap

 ストリートビューの航空写真モードで名鉄自動車学校を見ると、まさに野球場の様な敷地であることが見て取れます。一塁側と三塁側のスタンドが残されているのもみえますね。
 昭和二年十月に竣工した中堅約132m、両翼106mという現代の野球場と比べても一回り大きいグランドを有していたようです。戦前には、ルーゲーリックやらベーブ・ルースなどの超有名プレイヤーもここ鳴海球場で日米対抗戦を行ったそうです。立地の悪さからドラゴンズの本拠地となりえなかったのが運命の分かれ目だった感じですかね。

 スタンドを残したままグラウンドを多用途に転換といえば、今はもう解体されてしまっていますが、南海ホークスの本拠地だった大阪球場が、ホークスがダイエーに売却され博多に移ると、大阪球場は休場としての使命は終了し、グランドは住宅展示場になった事を思い出します。スタンドに囲まれた住宅展示場はある意味異様な雰囲気だった記憶があります。「大阪球場 住宅展示場」とGoogle先生に尋ねると当時のシュールな写真を探し出してくれるはずです。

「鳴海球場跡」の名鉄自動車学校から北西に位置する場所に鎮座する「成海神社」に向かいます。元々成海神社は「鳴海城址」に鎮座していたのですが、鳴海城を築城する際、現在の境内地に遷座されたという歴史があるようです。元々は伊勢湾を望む場所に鎮座していたのですが、かなり北側に遷座され、南には鳴海城が建つ丘陵があり、伊勢湾を望むことは叶わなくなってしまっています。

 県道36号線と成海街道が交差する「花井交差点」を北に進むと成海神社の境内入口が見えてきます。かなり広く駐車場が用意されているので、ここの駐車場にバイクを止めて、成海神社を参拝後、丹下砦址などは徒歩で向かいたいと思います。

成海神社

愛知県名古屋市緑区鳴海町乙古山八十五番地 GoogleMap

 「尾張国熱田太神宮縁記」によると天智天皇七年(668年)、熱田神宮より新羅の僧「道行」が草薙剣を盗み出し新羅に向かったとされるが、暴風雨などに遭い日本を抜け出すことが出来ず、自首して死罪に処せられたとされ、この時草薙剣は熱田神宮に戻さず宮中にとどめ置かれたと記されています。しかしその後、天武天皇の病がとなり、この病が神剣の祟りと見なされ、朱鳥元年(686年)6月10日に草薙剣は熱田神宮に戻されたといいます。実に盗み出されてから18年もかかっているんですね。
 で、この草薙剣が戻ってきた事の記念ではないですが、熱田神宮は朱鳥元年にヤマトタケルの東征にゆかりのある神社を十社建立しており、今回参拝する成海神社もこの中の一社になります。

 ヤマトタケルが東征を完了し、尾張国の火上山に向かう帰路、いよいよ翌日には火上山に到着できるという時に、最後の宿営地となったと伝承されている場所に鳴海神社が創建されたといいます。この鳴海の場所から伊勢湾越しに火上山の館にいるヤマトタケルとは東征から帰還したら結婚すると約束していた・・婚約といっていいのかな。・・宮簀媛命を思う歌を残したとされています。
「奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由不志保尓 和多良牟加毛」

 成海神社は神職の方が常駐されていて、常に御祈祷を受け付けている他、御朱印も頂けます。

  成海神社の参拝を終え、しばし徒歩にての散策となります。まずは、今川義元の手に落ちた鳴海城を包囲する砦の一つ「丹下砦」を目指していきます。丹下砦址は光明寺の裏側(北側)にあるのは分かっていたのですが、案内看板が何処にあるのかいまいち分からず、バイクでうろうろするより歩いた方が分かりやすいかなと思い、酷暑の中ひたすら丹下砦址を探して歩いていきます。

丹下砦址

愛知県名古屋市緑区鳴海町丹下地内 GoogleMap

 曹洞宗の寺院「一国山光明寺」の裏手の墓地となっている一帯が丹下砦址とされている場所になります。その為、丹下砦を目指すとまずは光明寺を訪れる事になるかと思うのですが、名古屋市が設置した丹下砦の案内看板は、光明寺とは異なる場所に設置されているので注意が必要です。また、最近設置されたようで、2020年9月現在のストリートビューを見ると、丹下砦の案内看板が設置前の画像となっているので、さらに注意が必要です。
 丹下砦は、鳴海城の北側に位置する場所に築かれた織田側の砦の一つとなり、織田家とは同盟関係であった「水野帯刀忠光」が客将として置かれています。位置的に鳴海城から北側に伸びる旧東海道を抑えるのが主任務だった感じです。

 丹下砦、光明寺の周辺には、「清水寺遺跡」や「鳴海代官所」がありますが、特に鳴海代官所については、宅地化されており遺構は残っておらず、説明板などもなく紹介が厳しい史跡になっています。

 光明寺から西に少し歩くと旧東海道との交差点に出る事が出来ます。この交差点の辻に、鳴海宿の西の入口に置かれていたという秋葉山常夜燈が据えられています。寛政四年(1792年)に建立された常夜燈で、東海道の拡幅や宅地化の為、現在の場所に移設されたそうです。

 このまま鳴海城方面に歩いていけなくもない感じなのですが、そうするとバイクを取りにかなり歩く事になりそうですので、成海神社に留めてあるバイクを取りに戻って、「鳴海城址」に向かいたいと思います。

鳴海城址

愛知県名古屋市緑区鳴海町根古屋地内 GoogleMap

 現在では「鳴海城址公園」として整備されており、遺構などは残っていません。城名が彫られた石碑も見当たりませんでした。しかし、成海神社の旧社地とされる天神社の境内に鳴海城の石碑が据えられています。鳴海城があった場所を切り通して成海街道を通した様で、元々の鳴海城の姿は分からなくなっていると思っていい様です。
 室町時代の応永年間に足利義満の配下であった「安原宗範」によって成海神社の境内地を含む場所に築城されています。この際、成海神社は北の乙子山に遷座されています。海に面した場所に城を築く事で、船荷の荷揚げ場所となる土場を設けたり、北側を通ったする「鎌倉街道」を抑える好立地だったのではないかと思います。

 桶狭間の戦いの際においても、鳴海城は落城する事はなく、この時鳴海城主だった「岡部元信」に対し織田信長は今川義元の首を渡すことを条件に開城するよう交渉し、この条件を呑んだ岡部元信は鳴海城を開城後、軍勢を率いて刈谷城を攻め落とし、駿河に向かったとされます。その後、鳴海城は善照寺砦を任されていた「佐久間信盛」が城主となります。

 鳴海城は天正末期に廃城となったとされます。「天正年中」は1573年~1572年となり、まさに織田信長がその勢力を一気に広げ、明智光秀が謎の謀反を起こし織田信長を本能寺にて討ち、豊臣秀吉が山崎の戦いで明智光秀を打ち取り、一気に天下人に成りあがっていくという織豊時代を象徴する元号になります。鳴海城が廃城となったのは、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下統一を果たし、徳川家康を関東移封で三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の五ヶ国の領地から関八州と呼ばれる関東平野にお国替えをした時に廃城となったと思われます。元々家康の領地だった所に秀吉子飼いの武将たちが城持ち大名として対家康という意味合いも含めて入城していたため、いわば尾張国と三河国の国境に近い城はある意味必要なくなったからだと思うのです。

 正直な所、鳴海城の遺構は全く残っていないのだろうと思っていたのですが、鳴海城址公園の北側にある「東福院」の山門に、鳴海城の城門に使われていたという「梁」が再利用されているらしいので、こちらを見に行く事にします。ただ、鳴海城址公園から東福院への道が結構狭くいまいち道順がわからなかったので、鳴海城址公園の公園利用者の方達に邪魔にならない場所にバイクを留めさせてもらい、徒歩にて東福院を目指していきます。

「知多半島全部盛り」一日目の前半が終了しました。この時点でまだ12時前、かなり順調よく回れているなといった感じでしょうか。後半は、鳴海城の周囲をぐるっと回った後、バイクで一気に大高駅方面に向かっていく予定ですので、昼食を取っても2時頃には全部回る事が出来そうです。
 ここまでで文章がかなり長くなっているので、今回の記事ではここまでとさせて頂き、1日目後半戦は次回の投稿で紹介させて頂きます。

 

2020年10月2日、知多半島全部盛り1日目後半戦の模様を公開しました。

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