ヤマトタケル東征伝説 伝説、伝承

ヤマトタケル東征伝承地を尋ねるin愛知県

2020年9月10日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ヤマトタケルと東征

 日本神話で最大の英雄と言えば「ヤマトタケル」で間違いない所かとおもいます。古事記では「倭建命」、日本書記では「日本武尊」と称されています。漢字表記する場合、一般的には日本書記の「日本武尊」になるかと思います。

 記紀によると、ヤマトタケルは第十二代天皇である「景行天皇」の皇子であり、第十四代天皇である「仲哀天皇」の父になります。元々の名を「小碓命(古事記)、小碓尊(日本書記)」といい、日本書記によると兄の大碓尊とは二子であったと記されています。

ONE POINT

景行天皇の皇子たち

前皇后)播磨稲日大郎姫    
    ├───────┬大碓尊(猿投神社祭神)
第十二代景行天皇    └小碓尊(日本武尊)─第十四代仲哀天皇
    ├───────┬第十三代成務天皇
後皇后)八坂入媛命   ├五百城入彦皇子
            ├忍之別皇子
            ├稚倭根子皇子
            ├大酢別皇子
            ├渟熨斗皇女(渟熨斗姫命)
            ├渟名城皇女
            ├五百城入姫皇女
            ├麛依姫皇女
            ├五十狭城入彦皇子
            ├吉備兄彦皇子
            ├高城入姫皇女
            └弟姫皇女

 岡崎市西本郷町には、景行天皇の皇子「五十狭城入彦皇子」の陵墓である「和志取古墳」が宮内省(現:宮内庁)によって治定されています。また、ヤマトタケルの二子の兄であるとされる大碓尊は豊田市猿投町に鎮座する「猿投神社」の御祭神であり、その北側に陵墓が治定されています。
 三河の地は上記の通り皇子が統治の為に送られている事から、大和朝廷の勢力圏内だったと考える事ができます。そして、矢作川を大体の境界線として矢作川より東側はまだ大和朝廷の勢力が非常に弱かった場所だと考える事が出来るのではないでしょうか。

 父「景行天皇」の命により、西国を平定する「西征」を行った後、続いて東国の蝦夷たちの反乱を鎮圧する為に「東征」と呼ばれる東国制圧に向かっていきます。古事記と日本書記では東征の任に着くヤマトタケルの心情が異なる描き方をしている所がポイントで日本書記で描くヤマトタケルはより一層英雄色を強めています。

 愛知県におけるヤマトタケルの伝承地としては、どうしても草薙剣を御神体としているという「熱田神宮」を抜きに語る事はできません。ヤマトタケルが東征の際、尾張国造「建稲前命」の力を借りる為、尾張に一時期滞在している間に、建稲前命の妹「宮簀媛」と東征から帰ってきたら結婚すると約束をしています。

 ヤマトタケルの伝承地は日本全国に存在していますが、当サイトでは愛知県に存在しているヤマトタケル伝承地を尋ねて紹介していこうと思います。ヤマトタケルと愛知県を結ぶ伝説は「東征」の際、愛知県となる尾張国、三河国を通ったのか否かという点が実は重要なポイントになるようです。

 ヤマトタケルの東征について、日本書記では、尾張国、三河国での足取についてまったく記載がありません。これに対し古事記では「伊勢国の後尾張に入り、美夜受比売と婚約した。」と書かれていて、伊勢国から尾張国に向かった事は解りますが、やはりその後の足取については書かれておらず、尾張から陸路で駿河に向かったのか、尾張から海路で駿河に向かったのかは分からないのが実状です。しかし、尾張国から陸路に駿河に向けて行軍したと思わせるヤマトタケル伝承地が点在しており、この伝承地を線で結ぶとヤマトタケルの東征軍の行程が見えてくる気がします。

 日本書紀では尾張三河に寄ることなく駿河の国に向かったように読み取る事ができます。しかしそれは記述が無かったから通っていないと読み取るのか、実は尾張三河を通っているがわざわざ日本書記に書くまでの出来事が無かったと読み取るのかで大きく異なってきます。そして、古事記では尾張の「建前稲命」を尋ね、その妹「美夜受比売」と婚約したと書き、尾張国に立ち寄った事が書かれています。尾張国立ち寄ったとなると、三河国に残る東征の際のヤマトタケル伝承地についての現実味が非常に濃くなってくる気がします。

 ヤマトタケルの東征が行われた頃のヤマト朝廷の勢力圏は、当サイトでは色々な紹介記事の中で、三河を流れる矢作川流域が東端になるのではと述べてきています。これは、ヤマト朝廷に仕えている尾張国造である「建稲種命」がヤマト朝廷の東端の守護を担っていたと思うからです。ヤマトタケルの東征以前にも、ヤマト朝廷より国造が東国に任命されているそうなのですが、国造の力が弱い、または現地の豪族たちの傀儡の様な形となり、ヤマト朝廷の意向は通じず、反乱を起こしていたのではないかなと。そんなヤマト朝廷の東側の守護ともいえる尾張国造である「建稲種命」が治める尾張国を日本書記の内容の様に無視して通過するなんてことがありえるのか?と古事記に記されている様に尾張国に立ち寄っていったと考えるのが無理がないかなと思います。

 そこで、当サイトでは、ヤマトタケルは伊勢に立ち寄った後、尾張国に上陸し、陸路で三河国を横断していったという今も残る伝承地を結んで東征ルートを考えていきたいと思います。

ヤマトタケル東征に向かう。

 西征と呼ばれる西日本の反乱を鎮圧する為の討伐軍が編成され、総大将として「ヤマトタケル」が任ぜられます。そして、無事西征から都にヤマトタケルが帰還すると、父景行天皇はすぐさま今度は東日本で起きた反乱を鎮圧する為に東征軍を編成します。

 日本書記では、東征軍の総大将を兄である大碓尊を推挙しますが、大碓尊はその話を聞き逃げ隠れてしまい、ならばとヤマトタケルは自ら東征軍の総大将に自薦すると景行天皇から斧鉞を授かり、東征軍の総大将として都を発ちます。
 これが古事記では、西征から戻ってきたばかりのヤマトタケルに対し、景行天皇は東の蛮族を討つ為兵を率いて出発せよと命じ、すぐさま東征軍を率いて京を発つことになります。

 都を出発した東征軍はまずは伊勢神宮の境内地を定めたとされる叔母である「倭姫命(倭比売命)」を尋ね、伊勢に向かっています。そして倭姫命より神剣である「草薙剣」と「火打石」を授けられています。

 ここで古事記では、ヤマトタケルは倭姫命との会話のなかで、「父景行天皇は西征から帰ってきたばかりの私にすぐ東征に向かえと命じるとは、私に死ねという事か?」と苦悩を話しており、日本書記と古事記ではヤマトタケルの東征に向かう姿の描き方が異なっている点が注目です。

 都から伊勢までどういったルートで向かったのかよくわからないので、三重と奈良の間にある鈴鹿山脈と布引山地の間を抜けていくルートで向かったのかなと勝手に想像して東征ルートにしています。上野盆地にある伊賀を超えていく辺り徳川家康の伊賀越えに通じるものがある感じです。

 ヤマトタケルが東征の頃には、「倭姫命」は天照大御神を奉斎する場所として五十鈴川沿いの現在の伊勢神宮の境内地を選定しているはずです。伊勢から渥美半島方面に船で向かいそのまま海岸沿いを東に向かえば駿河の国に行くことができます。この東国への最短ルートを選んだと記されているのが「日本書記」です。古事記では、「野津前」の伝説、そして「美夜受比売」との婚約、「建稲種命」の合流などから伊勢から「野津前(現:桑名市)」そして尾張国へ向かったとしています。

青色の部分は、ヤマトタケル東征の頃は海だった想定される場所になります。名古屋市から海部郡は当時海だったわけです。

 三重県内におけるヤマトタケル東征伝承地は、伊勢を出発すると桑名の尾津前までの遺構、伝承地が見当たない事から、100%断言はできませんが、かなりの確率で伊勢から桑名まで海路にて向かったのではないかと。そして桑名の尾津前にて軍勢を整えている間に、尾張国火上山に館を構えていたとされる「建稲種命」に使者を送り、戻ってくると再び乗船し尾張国に向かったと思います。

ヤマトタケル尾張国に入国する。

 伊勢国の尾津前から出港したヤマトタケル率いる東征軍は尾張国造である「乎止与命」の息子「建稲種命」の館がある「火上山」に向けて伊勢湾を横断していったと考えられます。当時は今より海水面が高く、海部郡のある辺りは伊勢湾となっていたはずです。
 ヤマトタケルが上陸した場所として伝承されているのが、愛知県東海市名和町に鎮座する「船津神社」になります。乗ってきた船を松の木に縄で結んでとめたことから「縄→名和」そして「船が着眼した場所→船津」とつけられたとされています。

船津神社

愛知県東海市名和船津一番地 鎮座地

 ヤマトタケルが東征の際、桑名から船に乗り上陸した地に鎮座するという伝承を持つ神社になります。またその故事にちなみ、平将門の乱において征夷大将軍「藤原忠文」が武運を祈願しています。さらに、その後、平安時代末期に平治の乱において破れた源義朝が野間の地において長田忠致により殺害され、平清盛の元に届けられる義朝の首を奪還せんと義朝の家臣「渋谷金王丸」が長田忠致を追っていた時、船津神社の前を通過しようとしたとき急に馬が進まなくなり、金王丸は船津神社に参篭、祈願し、銘刀「三条小鍛治宗近」を奉納したといいます。この刀は、桶狭間の合戦が起こった永禄三年(1560年)に今川義元により「政宗」と交換されたと伝わっています。

 尾張国に上陸したヤマトタケル率いる東征軍は、上陸した現在の名和町周辺に駐屯し、ヤマトタケルと副将など数名が尾張国造である「建稲種命」を尋ねる為、火上山にある館を尋ねたと思われます。
 尾張国造であった「建稲種命」は朝廷に従属していたとされ、東征軍への援軍要請に従い、各地の配下に徴集をかけ軍勢の編成が完了するまでの間、ヤマトタケルは尾張国に滞在する事になります。

火上山

愛知県名古屋市緑区大高町火上山 所在地

 海越しに熱田台地を望む場所に位置し、山頂に尾張国造の「建稲種命」の館が築かれ、ヤマトタケルと美夜受比売が出会った場所とされています。その後、ヤマトタケルが東征から帰還すると、二人は結婚してしばらく火上山周辺に居を構えていた様ですが、ヤマトタケルが伊吹山の荒ぶる神を討伐に出かける際、草薙剣を美夜受比売に預けていきますが、ヤマトタケルは返り討ちにあい、尾張国に寄ることなく伊勢国の能褒野で亡くなってしまいます。
 美夜受比売は草薙剣を火上山の館にて奉斎していましたが、自らが年を重ねる中草薙剣を熱田の地に遷座奉斎させます。その後美夜受比売が亡くなるとその神霊を祀る神社が火上山の館跡に創建されます。この神社が「氷上姉子神社」であり、持統天皇の御代に現在の境内地に遷座しています。
 現在は、火上山は氷上姉子神社の境内地となっていて、熱田神宮末社である「元宮」と「神明社」が鎮座しています。

氷上姉子神社

愛知県名古屋市緑区大高町火上山一番地三号 鎮座地

 火上山に鎮座し氷上姉子神社を持統天皇四年(690年)に現在の境内地に遷座したといいます。御祭神はヤマトタケルの妃「宮簀媛命(古事記では美夜受比売)」になります。
 現在の氷上姉子神社は前述の通り690年に遷座している為、直接ヤマトタケルとの関係性は元宮と比べると薄くなってしまうのかなと思いますが、何もない所に遷座させるとも思えないので、現在の境内地も元々は尾張国造関連の屋敷や施設があったのではないかと思います。

 建稲種命の東征軍の編成が終了までヤマトタケルは火上山の館にて滞在していたと考えられます。実は、尾張国には、ヤマトタケルが訪れたという伝承が残る場所が何ヶ所か存在しています。これが東征に向かう前に尾張国に滞在していた時に訪れたのか、東征から戻ってきて尾張国に滞在していた時に訪れたのか、伝承にこの辺りが記されていない為、どちらなのか分からないのが現状です。
 東征に出発する前の緊張感が支配している時に尾張国を巡るだろうかと考えると、尾張国に戻り、宮簀媛命を妃とし、いわばヤマトタケルに臣従した尾張国を見て回ったと考えるのがありそうな気がします。そこで、尾張国を巡ったという伝承地は後に紹介していこうと思います。

ヤマトタケル尾張国を出立し東に向かう。

 一説には、ヤマトタケルは海路を、建稲種命は陸路を進み東を目指したとし、両軍が合流した場所は房総半島の玉崎あたりであるとされています。建稲種命が進んだ陸路とは、五街道でいう所の「中山道」にあたる街道であったと思います。東海道が整備されるまで陸路の主要街道は中山道の方だったようです。
 一方、海路を進むヤマトタケル率いる軍勢は、海岸線沿いに点在する港に立ち寄りながら東に向かっていたはずです。しかし、尾張国から三河国内に点在する伝承地から考えるに、浜名湖までは陸路で東に向かったことも考えられますし、海路で出立したとしても、何らかの事情により三河国のどこかで上陸して浜名湖にかけて、ヤマトタケルは陸路を使って進んだのではないでしょうか。

八劔神社

愛知県安城市榎前町北榎七番地 鎮座地

 ヤマトタケルの東征軍がこの地を通りかかった際、ヤマトタケルは榎木の根元で休憩したといい、後に村人たちはここに社を建てて祀ったのが創建の由来とされています。

白鳥神社

愛知県岡崎市大和町平野一三五番地 鎮座地

 ヤマトタケル率いる東征軍の駐屯地跡と伝えらえる神社であり、ヤマトタケルから三世の孫「大荒田命」の後裔が父祖の神霊を奉斎したと伝えられる神社となります。

矢作神社

愛知県岡崎市矢作町宝珠庵一番地 鎮座地

 ヤマトタケルがこの地を訪れた時、この地の民達から矢作川の東に住む賊の征伐を依頼されました。高石山と呼ばれる場所を拠点とした賊を征伐する為、ヤマトタケルは民達と共に矢を矧ぐことにします。しかし、矢にする竹は川の中州に生えていている為、なかなか取りに行くことができません。そのとき蝶が飛んできて人の姿になり中州の竹を取ってきてくれました。この竹を使って1万本の矢を作成したといい、この矢を使って高石山の賊を攻め落としたといいます。この矢を矧いでいた場所にヤマトタケルが崇敬していた「素戔嗚尊」を奉る祠を建てたとされ、この祠が現在の矢作神社となったと伝えられています。

長瀬八幡宮

愛知県岡崎市森越町森下四十五番地 鎮座地

 矢作神社に伝わる伝承に非常に似た伝承が長瀬八幡宮が鎮座している森越に伝えられています。駿河から来たという賊が攻めこんできて、矢作川の対岸に陣を敷いている為、この賊を打ち払ってほしいと懇願され、ヤマトタケルは村人達に矢作川に自生している竹を使って矢を作らせ、この矢を使って賊を打ち払っています。現在、長瀬八幡宮の境内に「矢竹藪」として、矢を作った竹として保存されています。

高石山(甲山)

愛知県岡崎市六供町甲越七番地 鎮座地

 矢作神社の伝承にでてくる賊たちが人を敷いたとする高石山は、現在では「甲山(かぶとやま)」と呼ばれる場所になっています。現在では甲山八幡宮が鎮座し、その隣には松平清康が安祥城より移したと「甲山寺」が建っています。
 高石山から甲山と名称が変わったのは、ヤマトタケルの夢に三人の翁が現れた。東征を守護するから、東征後甲首を山神に供えよと飛び去り、一里ほど東の山で三つの大石となるという内容だたった。東征後、三河国に戻ってきたヤマトタケルは守護してもらったお礼に三つの大岩に敵の甲首を埋めたという伝承に基づくものだそうです。

菅生神社

愛知県岡崎市康生町六三〇番地一号 鎮座地

 現在の菅生町菅元に建っている「満性寺」辺りを昔「高岩」と呼ばれていた場所で、この場所でヤマトタケルは矢を矧いでいた所、一本の矢が風に吹き流されて菅生川まで飛んで行ったといい、この矢を御霊代として天照大御神を祀ったのが菅生神社の創建と言われています。

白取神社

愛知県岡崎市大西二丁目十四番地五号 鎮座地

 ヤマトタケルが東征に際の駐屯地跡と言われ、ヤマトタケルもこの地で御駐泊したという御旧跡と言われています。尊の崩御後、年を経ずして祠を営むと伝えられています。

神明社

愛知県岡崎市本宿町森の腰二十三番地 鎮座地

 ヤマトタケルが東征の際、この地を通過の折、山上に紅白の雲棚引くのを見て「瑞雲なり」と伊勢の大神を遥拝した場所だと伝えられています。
 二村山法蔵寺との関係から、元々は法蔵寺の南にある山の山頂で伊勢の大神に遥拝したと考える事ができ、その後行基が宝蔵寺を創建し、天照大御神の本地仏として観音像を刻み本尊としたといい、天照大御神は鎮守社として鎮座していたようです。
 そして、元中二年(1385年)、鎮守社である皇大神を現在の場所に遷座、神明社として村人たちの産土神として祀られています。

二村山 法蔵寺

愛知県岡崎市本宿町寺山一番地 所在地

 現在、三河新四国霊場三十五番札所、三河観音霊場十二番札所などに選定されている「二村山法蔵寺」の境内地となっている場所(山門を潜り、石段の参道の向かって左側)に「賀勝水」と呼ばれる湧き水が湧いている(・・湧いていた?)場所があります。
 日本武尊が東征でこの地を通りかかった時、法蔵寺の南の山頂で祈りを捧げると、岩の中から冷たい泉がほとばしり出たんだとか。日本武尊が、この水を「賀勝」と呼んだため、「賀勝水」と呼ばれるようになったといいます。
※法蔵寺の境内には新選組隊長「近藤勇」の首塚と松平家霊廟と三方ヶ原合戦戦没者の墓があります。

随時、更新していきますので、気長にお付き合いください。

・更新履歴
2020.09.25 東海市名和町「名和古墳群」追記
2020.09.24 名古屋市緑区大高町「氷上姉子神社」追記
2020.09.21 名古屋市緑区大高町「熱田神宮末社元宮(火上山館跡)」追記
2020.09.18 東海市名和町「船津神社」追記

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