第一章 世良田有親:関東脱出

関東脱出の段

世良田有親、親氏親子は、相州藤沢にある「清浄光寺」にて剃髪、仏門に入り、遊行僧として三河に入ったというのが定説になっているのですが、「清浄光寺に入った年代」が記されている歴史書によって異なっており、その誤差は三十年近くにもなります。

関東脱出への契機となった出来事と「改正三河後風土記」ではどういった説を取っているのかを見ていきます。

第一の説:応永二十三年(1416年)

右京亮政義の子を、修理亮親季といふ。其子を有親といふ。
大成記」には、応永二十四年(1417年)丁酉五月、鎌倉管領左馬頭持氏と執事上杉右衛門佐氏憲入道禅秀と、不快の事ありて、禅秀反逆せし時、新田一族も関東の武士と共に、禅秀に一味せしかば、京都将軍(足利義持)より持氏に加勢ありしかば、禅秀終に討亡さる。持氏是より其党類を捜索し、悉く殲滅せんとす。

応永二十三年(1416年)に勃発した「上杉禅秀の乱」になります。
室町幕府は関東以東の統治機関として「鎌倉府」を設置し、鎌倉公方としては二代将軍「足利義詮」の弟である「足利基氏」の一族が世襲し、鎌倉公方の補佐役として「関東管領」が設置され、こちらは「上杉家」が世襲しています。
関東公方四代目の「足利持氏」は関東管領だった「上杉禅秀」との間の対立が激化し、禅秀を関東管領職から更迭します。上杉禅秀は鎌倉公方のお家騒動も加わり、足方持氏に対しクーデターを起こし、一時期は足方持氏を鎌倉から追い出すことに成功しますが、足利将軍家は持氏を支持し、今川家、宇都宮家、佐竹家など討伐軍が鎌倉を奪還、上杉禅秀は自害し、反乱は終結します。

この「上杉禅秀の乱」の際、時宗総本山である「清浄光寺」の「尊恵上人」が、一山の僧と近在の人々を集めて敵・味方(御方)の負傷者の手当てを行い、また「敵御方供養塔」を建てて双方の戦没者を供養したと言われており、その供養塔が今も清浄光寺に残っています。

そして、禅秀一派の掃討を逃れる為なのか、こう続きます。

有季其子有親を携えて、ひそかに上州世良田を忍び出て、相州藤沢清浄光寺に入、剃髪してかりに時宗の僧となり、親子東西に別れ、親季は山道に趣き、有親は長阿弥、其子親氏は徳阿弥と号し、共に海道を赴くとあり。

時宗総本山である神奈川県藤沢にある「清浄光寺」に入山、剃髪し、有親は「長阿弥」、親氏は「徳阿弥」と称し、鎌倉から遠くに逃げる為、海沿いを西に向かったとされています。しかし一説には信濃経由で三河に入ったという説もあり、どういったルートで三河に向かったのかは不明となっています。

第二の説:応永三年(1396年)

しかし、「藤沢宇加神禄記」と「鎌倉大草紙」によると、関東脱出の契機は「小山若犬丸の乱」ではないかと記されています。

応永三年春の頃、小山若犬丸奥州に逃下り、田村庄司清包を頼み、故新田義宗子息相州並従弟刑部少輔をかたらひ、大将として白河辺へ打ち出て、上州、武州に隠居たる宮方の末葉、悉く駆募る。鎌倉殿これを聞きて、十ヶ国の軍平を引率し、白河御下向、結城が館に御座す。此由聞へて新田、小山、田村等悉く退散し、行方知らずとあり。

小山若犬丸の乱と呼ばれる鎌倉公方への反乱になるのですが、実はその前、小山岩犬丸の父親「小山義政」の代から17年前から繰り広げられていた小山氏の乱のいわば最終章の戦いになります。
応永三年の反乱において、鎌倉公方方は小山若犬丸の与した軍勢の徹底的な追討を行い、岩犬丸は奥州で自害したとも言われ、新田氏、小山氏、田村氏も徹底的に追討されたことがわかりますね。

第三の説:応永三十一年(1424年)

更に、「波合記」には・・・

親季は、「尹良親王」と共に島崎の域までおはしけるよし見る。しかれば親季は親王御供にて、「浪合の戦い」で討ち死し給ひ。有親は若犬丸の催促に応じ、白河へ趣給ひ、其後宮方潰散しければ、上州へと立帰給ひしが、若犬丸の党なりし故、鎌倉の捜索を逃れ、時宗に身を寄給ひしにや。

と記されているとありますが、浪合記では、浪合の戦いが起こったのが「応永三十一年」と記されています。それに対し若犬丸の乱は「応永三年」に起きています。この浪合の戦いは発生した事は間違いないが、年代がおかしく、「鎌倉大草紙」に帰されている応永三年よりも前に起きた戦いであると「改正三河後風土記」では論じています。

尹良親王とは


建武の新政を行った「後醍醐天皇」の孫であり、「宗良親王」の王子であり、母は井伊道政の娘とされる。南朝の復興の為、各地で転戦していたと伝えられています。「宗良親王」が海路にて福島に向かう際、座礁し、井伊谷の豪族井伊道政のもとに身を寄せていたと言われ、「尹良親王」は井伊谷で生まれたとされています。
その後南朝の本拠地である「吉野」に向かい、「源性(御醍醐源氏)」を賜り臣籍となり、征夷大将軍に任ぜられています。

関東脱出の時期は何時

清浄光寺にはこんな伝承が残っています。

清浄光寺の境内に鎮座する「宇賀神社」に祀られる宇賀弁財天は、徳川氏の祖とされる有親の守り本尊と伝わります。有親は「遊行十二代尊観上人」の弟子となり名を「徳阿弥」と、長男の親氏は「長阿弥」と名を改めました。そして、次男泰親が「独阿弥」となり、「三河国大浜称名寺」に移るとき、遊行寺に宇賀神社を奉納しました。「長阿弥」はのちに三河国松平の酒井家の養子となり、「独阿弥」は松平家の養子となり、その子竹若丸は松平を、次男竹松は徳川信光と称しました。これが徳川家の祖先といわれる由縁です。

清浄光寺ホームページ」より

実は、有親、親氏親子が関東を脱出する際に、問題となっているのが、既に述べている様に、何時頃清浄光寺にて出家して遊行僧として三河国に向かったのかという事ですが、もう一つ論争になっているのが、「泰親」の存在です。「改正三河後風土記」では、「泰親」は「親氏」の嫡子であるとしています。しかし、前述した清浄光寺の伝承や、松平氏発祥の地である「松平郷」の伝承などでは、「親氏」と「泰親」は兄弟であり、有親と親氏と共に遊行僧として三河国にきたとしています。

この親氏、泰親の系図がどうなってとらえるかによって関東脱出の時期が大幅に変動しそうです

もう一点、関東脱出時期を推定する為に、親氏が死亡したと伝えられる年月も手掛かりの一つとなりそうです。この辺りは、Google先生やWikipediaを参照させて頂くと・・・

親氏が死亡したとされる年月一覧

康安元年(1361年)4月20日(「法蔵寺由緒」・「大樹寺記録」・「奥平家記録」)
応永元年(1394年)4月20日(『三河海東記』)
応永元年(1394年)4月24日(『高月院記』)
応永二十年(1413年)(「信光明寺縁起」)
応永二十一年(1414年)(「松平総系譜」)
応永二十八年(1421年)(「参陽松平御伝記」)
応永三十五年(1428年)(『東栄鑑』)
永享九年(1437年)(「瀧村万松寺系図」「梁山妙昌寺位牌」)
康正二年(1456年)(『大三河志』)
応仁元年(1467年)4月20日(『徳川歴代記』)

各歴史書の死亡時期を並べると100年もの誤差が発生していますね。当時の平均寿命がおよそ50年なので、二世代分の誤差がある事になります。松平家で史料などで確認できるのは三代目の「松平信光」からになるのですが、この信光が死亡した年が長享二年(1488年)~長享三年(1489年)とされています

当主として、一代当たりの在任期間は平均すると15年から25年ぐらいになるはず。(徳川幕府が約250年の期間で将軍が15代ですので、1代当たり16.6666・・・年ですので、平均に比べると少し短い・・・というか、初代徳川家康は2年、15代徳川慶喜に至っていは1年の在任期間だった事を考えるともう少し長くなりますね。)

この当主としての在任期間を少し長めの25年とすると、1488年-25年=1463年・・単純計算で二代目「松平泰親」が死亡した時期に当たり、さらに1463年-25年=1438年に「松平親氏」が亡くなった計算となります。この計算は、「親氏・泰親親子説」を前提にしており、更にさかのぼれば、「世良田有親」が死亡したのが1438年-25年=1413年となる訳です。有親は三河の地で死亡したと言われているので、1413年以前には三河国に入っていたという計算が成り立つわけです。
しかし、「親氏・泰親兄弟説」となると、松平家二代目となる「泰親」が当主だった時期は非常に短くなると考えるのが普通なると思うので、三河国に入った時期は「親子説」に比べると20年ほど後ろにずれ込むはずです。まあ、人の生き死にに拘る事ですので、そんな単純に計算で求められるものではないのですが、松平家三代目の信光の死亡時期からある程度の推測は可能かなと思います。

上記に親氏死亡時期説一覧には載っていませんが、松平郷の伝承では明徳四年(1393年)頃に没したとされています。豊田市としてはこの説を採用して、平成五年(1993年)には豊田市で親氏没後600年を記念して「親氏公600年祭」を執り行っています。
改正三河後風土記」では、前述しましたが、「親氏・泰親親子説」をとっています。そうなると、おおよそ応永元年(1394年)から応永二十一年(1414年)頃には三河国に入国しているという訳です。それを示す様に、「改正三河後風土記」では、前述した三つの説(①応永二十三年、禅秀の乱において敗軍となった為。②応永三年、小山若犬丸の乱において敗軍となった為。③応永三十一年、浪合の戦いにおいて敗軍となり、若犬丸の誘いに応じたが敗軍となった為。)の中から、「応永三年(1396年)に発生した「小山若犬丸の乱」によって鎌倉府より追討され、相州藤沢の清浄光寺にて出家し遊行僧として追ってから逃げる様に国外に逃げた」としています。

三河国入国の段

相州藤沢「清浄光寺」で剃髪し遊行僧となり、「長阿弥」、「徳阿弥」となった世良田親子ですが、当然剃髪したとはいえ、鎌倉からほど近い場所にある清浄光寺にいつまでも滞在するわけにはいかなかったはずです。当時、南北朝時代が終結したとはいえ、まだまだ南朝の残党が日本全国で反乱を起こしており、世良田親子が出家する原因ともなった「小山若犬丸の乱」では、元々は下野守護職だった小山氏が待遇に不満を持ち鎌倉府と衝突し小山氏は滅ぼされてしまいます。何とか生き延びた小山若犬丸は再起を図る為奥州に逃げ延びていきます。応永三年に決起する間に、奥州などにいた南朝勢力と結びつき、その中に世良田親子もいたとされています。鎌倉府による残党狩りは熾烈を極めたとも言われています。

「改正三河後風土記」では・・・

・・・(前略)、有親本国上州新田祝人村に帰住し給ひしが、そののち鎌倉の捜索厳しければ、自害し給わんとせられし時、護身宇賀神の霊夢に感ぜられ、その時藤沢遊行上人が岩松青蓮寺に旅宿ありしかば、其弟子となり、有親、親氏、泰親三人とも名を変え姿を改め給う。

岩松青蓮寺は、おそらく上州岩松郷(現在の群馬県太田市)にある時宗である「岩松山青蓮寺」の事を指しています。この青蓮寺は源氏所縁の寺院であり、岩松家の庇護を受けていた寺院になります。岩松家は新田惣領家が滅亡した後、室町幕府より新田家の後継を認められています。また青蓮寺で有親を弟子にしたという遊行上人は「遊行十二世尊観法親王」になります。

岩松山青蓮寺紹介HP

http://www.webgunma.com/1263/

遊行十二世尊観法親王(貞和五年/正平四年(1349年)-応永七年十月二十四日(1400年11月10日))は、亀山天皇の七男「常盤井宮恒明親王」の嫡子になります。嘉慶元年/元中四年(1387年)より清浄光寺十二世となる。

そして、この時霊夢にて有親をすくったとされる宇賀神が、前述している清浄光寺の鎮守社である「宇賀神社」の御神体「宇賀弁財天」になります。清浄光寺では、「親氏・泰親兄弟説」をとっているようで、「改正三河後風土記」でもこの宇賀神の段では、有親、親氏、泰親の三名が姿を変えたとありますね。

清浄光寺内鎮守宇賀神社紹介ページ

こうして、遊行十二世尊観法親王に弟子入りした「長阿弥」,「徳阿弥」ですが、上州岩松郷から相州藤沢の清浄光寺に移動し修行を積みます。修行をどのくらいの期間行ったのかは分かりませんが、藤沢の地はご存知の通り鎌倉か近い場所にある為、何時追討の網にかかってしまうかわかりません。鎌倉府の追討から逃れるために、遊行僧として諸国行脚に出かける事になります。
この全国行脚というか、最終的には三河国に向かうのですが、どういった経路で向かったのかは明らかになっていません。しかし、真偽はわかりませんが、諸国行脚の出来事の一つが昔話が残っています。

時は江戸時代、徳川幕府では正月に兎汁を振舞う行事「献兎賜盃」が行われていました。その一番杯を頂くのは、御三家でも御三卿でもなく、幕府中枢の老中などでもなく、三河林氏と決まっていたのです。この「献兎賜盃」の由来が何と「長阿弥」,「徳阿弥」の全国行脚の時代まで遡るというのです。

信州に小笠原の一族にして、「林藤助光政」という者あり。おもより御知音なればとて、尋ねとはせ給ふ。光政とどめて、何かな宴応せんと思へども、折ふし雪は深し、一物もまいらするものなし。十二月二十九日のことなるが、光政山中にて兎一羽狩来たり。翌元日これを羹にして、饗しまいらす。是当家元旦の佳例に兎の吸物を供し奉る権興なりとぞ

この伝承から考えると、藤沢から中山道、現在の秋葉街道を抜けて井伊谷経由で三河に抜けた可能性が高いですね。井伊谷周辺は元々南朝方の勢力圏ですし、鎌倉府のからの追っ手から隠れるにはもってこいの場所になりますからね。

三河国入国の段

信州での「林藤助光政」のもてなしを受けた一行は、さらに三河に向けて進んでいきます。「改正三河後風土記」では、途中の道中についての記載はなく、一気に三河国入国に話が飛んでいきます。

有親親子やがて三河にいらせ給ひ。大浜称名寺は時宗の寺なれば、ここに年月を送り給ひて、有親は称名寺にてうせ給ふ。御墳墓も寺中にいとなみたまひしとぞ。
按ずるに、有親君卒去、原書は嘉吉二年(1442年)十月御年四十五とす。称名寺では享徳元年(1452年)四月五日とし、御法名を松樹院殿とす。藤沢寺にては、永享十二年(1440年)十二月五日とす。異説区々にして、定かならずといえども、藤沢の御願文、足助の大般若奥奥書等によるに、応永(1394ー1428年)の時、既に三河に御住居有りしは疑いなし。

改正三河後風土記」より

時宗の遊行僧ですので、三河国の時宗の寺院である現在の碧南市大浜地区にある「称名寺」にたどり着いたとあります。世良田有親こと徳阿弥はこのまま称名寺にの住寺し、亡くなったとあります。たどり着いた年月は明らかではない様ですが、藤沢を出立した応永三年、もしくは応永四年頃には三河国にたどり着いているはずなのですが、大浜称名寺には下記のような寺伝が残っています。

徳川有親及其の子親氏、永享年中(1429-1441年)藤沢清浄光院に入りて剃髪す。後嘉吉元年(1441年)其の臣石川孫三郎を従えて本刹に来住す。蓋し孫三郎の弟当時本刹に住寺たりければなり。後親氏は松平村に移り、有親は享徳元年(1452年)本刹に寂すとあり。

愛知県碧海郡誌」より

自分が三河国入りを推測した応永三年~四年頃とは50年弱の時代のずれが生じています。どちらが正しいのか一次史料が存在しない為、断言できないのですが、ただ、称名寺の寺伝の嘉吉元年に三河国入入りしたとなると、その後の歴史と整合性が取れなくなってきてしまうんですよね。例えば、松平家三代目「松平信光」は応永十一年(1404年)生まれとされています。称名寺の寺伝からすると、親が三河国に入っていないのに息子(もしくは孫)が生まれてしまっている事になる訳です。
そんな事から、称名寺寺伝の年号については割り引いて考える必要があるかと思います。

徳阿弥、長阿弥親子が遊行僧として漠然とした目的もなく三河国に来た訳ではなく、従者として旅を共にしていた「石川孫三郎」の弟が大浜称名寺の住持(住職)であり、この縁を頼って三河国に来たとなっています。この石川氏が後の家康筆頭家老であり、豊臣家に出奔した「石川数正」を輩出した石川家と同一なのかは不明です。

大浜、東照山称名寺紹介記事

岡崎市矢作町にある時宗の寺院「鏡立山光明寺」にも長阿弥,徳阿弥についての寺伝が残ってます。「改正三河風土記」には記載されていない伝承ですね。

・・・(前略)・・・光明寺九世浄開上人の時代に諸国御礼修行の「遊行上人」が、永享十一年(1439年)三月上旬に相州藤沢山清浄光寺で出家剃髪された長阿弥公(生没不詳、俗名世良田有親)及びその子徳阿弥公(生没不詳、俗名世良田親氏)を伴って三州へ入られ当山に逗留された。
永享十二年(1440年)六月二十五日に当山へ入後に七日間の御礼修行が行われた時、・・・(後略)・・・。

光明寺の寺伝では、遊行上人と共に諸国御礼修行中に三河国に入国した事になっています。そして三河国入国が永享十二年(1440年)となっていて、この年代は称名寺の寺伝とそんなにずれはないことがわかります。

ここで、徳阿弥となり三河国までやってきた「世良田有親」の伝承は終了し、次章からは長阿弥こと「世良田親氏」の伝承に移っていきます。有親の代の出来事を簡潔にまとめていきます。

応永三年(1396年)に発生した「小山若犬丸の乱」において、小山若犬丸に与した有親だったが、反乱軍が室町幕府の鎌倉府より制圧、乱に与した者の追討戦が行われていきます。追討軍から逃れる為、有親一行は、一度は本貫地である上州世良田に逃げますが、当然そこにも幕府軍は追っ手を向かわせます。そこで、有親一行は、岩松青蓮寺に旅宿していた藤沢遊行上人の元に向かい、弟子となり、有親、親氏、泰親三人とも名を変え姿を改めた上で、相州藤沢の清浄光寺にて出家し、従者の石川孫三郎を連れて藤沢から三河を目指して遊行僧として向かいます。
途中、信州にて「林藤助光政」という有親旧知の人を尋ねたという伝承が残っています。
三河国に入国した有親一行は、大浜の称名寺に住寺することになります。この時、泰親は称名寺ではなく別の寺院に入ったという伝承も。有親はこのまま称名寺に住み、そのまま亡くなり称名寺境内に埋葬されたといいます。

2019年6月29日