知多半島の弘法大師霊場を遍路して、色々な霊場を巡礼して、神社を参拝して、史跡や城跡を探訪して回るその名も「知多半島(遍路・巡礼・参拝・探訪)全部盛り紀行」。この企画の三日目の模様をお送りしていきます。
前日二日目には名古屋市緑区から順調に大府市に進み、今回は更に大府から知多半島の三河湾側に進む予定だったのですが、何やら大きく進路が変わった模様です。どんな道中だったのか、見ていってください。
知多全部盛り3日目
皆さま、おはようございます。本日は、令和二年(2020年)十月二十一日(水曜日)になります。ここはJR東海の東海道本線共和駅西口に来ております。前回、途中で天候が急激に悪化し、今にも雨が降ってきそうな空模様になった為、急遽途中で旅路を切り上げて家路についてしまった為、前回廻り切れなかった分も含めてどんどん巡って行きたいと思います。
東海道本線を走る快速と普通の停車駅となっている共和駅ですが、西口は裏口側になるのか比較的ひっそりとした雰囲気がありますね。東海地方にお住いの方は分かる方が多いかと思いますが、CMなどでよく知られている「宝石の八神」がこの西口から見える場所にありますよ。
八ツ屋神明社
さて、この共和駅西口からレンガ敷きの歩道が設けられている道路を道なりに進んでいくと、東海道本線をオーバーパスして東西をつないでいる県道243号線との「共和町2丁目交差点」にぶつかります。この交差点の角に神社が鎮座しています。この神社が「八ツ屋神明社」であり、女子レスリングの日本代表が必勝祈願で参拝し絵馬を奉納した事でニュースで取り上げられていた神社になります。
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/09/03/kiji/K20160903013284860.html
女子レスリングもパワハラ問題などがあって、一時期のカリスマ的な人気も少し落ち着いてきたのかなと思いますが、それでも東京オリンピックが来年開催(できるのかな?)したらメダルが期待できる競技という事もあって再び人気が盛り上がりそうな感じです。
このリオオリンピックの時に奉納されたという絵馬が現在(2020年)でも掲げられていて、見る事ができます。聞いたことのある選手や監督が奉納した絵馬を見ると、あの時の熱狂が思い出されます。
八ツ屋神明社の参拝と絵馬を拝見させて頂いて、県道243号線を東に向かい東海道線をオーバーパスします。県道243号と県道50号が交差する「共和町交差点」を右折して大府駅方面に向かいます。県道50号に入ってすぐに路地に入って、大府市立大府北中学校の正門を目指して進んでいきます。中学校に用があるのではなく、大府北中学校が建っているあたりは「追分城」があった場所なんだそうです。
追分城跡
追分城は、永禄二年(1559年)に稲垣淡路守よって築城されたと言われています。今川義元の家臣「牧野氏」の家臣団に後に徳川家康の直参となり大名になった「稲垣長茂」がいます。もしかしたらこの稲垣長茂が築城したのか?と思ったのですが淡路守という官位は得ていない様で、何となく違うのかなと思うのですが、実は・・・稲垣長茂の子孫に大阪町奉行の在任中に賄賂の収賄で罷免、地行半減、閉門となった「稲垣淡路守種信」がいたりします。良い方出なく悪い方で有名ですが、この種信の官職が淡路守・・・。もしかして?と思わせる事象ですね。
仮に、この稲垣長茂が築城したとしたら、この共和周辺は今川家の勢力圏にあったという事になります。桶狭間前夜まで尾張国のかなりのエリアが今川家の勢力下にあったという事になりますね。
この追分城は一度は廃城になったっぽいのですが、尾張藩の家臣「阿部正興」が四千石の知行を得て追分城跡に屋敷を構えたとされています。この屋敷跡には空堀を有していたとされ昭和30年代頃まではその遺構が残っていたと言います。
昭和23年の航空写真を見ると、空堀なのか土塁なのかは写真からは判別できませんが、四角に囲まれている場所が見て取れます。ここが「追分城」の跡のようです。
「追分城跡」といっても大府北中学校の正門の横に説明板が一枚あるだけで、上記の写真からもわかりますが、全く遺構は残っておりません。どうしても都市開発の中で、よほど歴史的価値があまりないのかこうやって潰されてしまった遺構は全国でかなりの数に上るかと思います。
追分城跡の看板を読んで、全くその風景が思い浮かばないと思いつつ、バイクを南に走らせて四国直伝弘法九番札所「慈雲山浄通院」を目指します。
慈雲山浄通院
四国直伝弘法の札所であり、大府七福神の恵比寿様の奉る曹洞宗の寺院になります。創建は永禄二年(1559年)とされ、一説には追分城を築城した「稲垣淡路守」の発願により創建された寺院であると言われています。元々浄通院の境内は追分城の近くにあったとされ、宝暦五年(1755年)に火災で堂宇を焼失し、その後現在の境内地に移転したそうです。
ここ浄通院の弘法大師像は本堂の向かって左手側に大府七福神の恵比寿様と共に奉安されていて、額に収められている「四国直伝證」を拝見する事ができます。
浄通院の納経を終えて、地図を見ていると浄通院の南側にある追分という所に「山祇社」という神社が鎮座している事がわかったので、そちらに向かってみる事にしました。
山祇社
平成になってかなり大規模な造営工事が行われた様です。神社周囲が区画整理まで行かないにしてもかなりの宅地化が行われた様でこの時に造営工事が行われたのかもしれませんね。
ここ大府市には「大山祇命」を祭神とする山祇社または山之神社が多く鎮座している様な気がします。これが大府市周辺特有の物なのか、知多郡全体の物なのかは今後知多半島を巡って行く中で確認してみたいですね。
「山祇社」の参拝を終えて、先ほど納経した「慈雲山浄通院」が別当寺となっていたという「藤井神社」に向かっていこうと思います。
藤井神社
「藤井神社」は浄通院と同じく永禄二年(1559年)に追分城主稲垣淡路守によって追分城の守護神として勧請されたという説が残る神社になります。その後火災に遭い、天和三年(1683年)十二月に現在の境内地に遷座しています。
創建時、淡路守の奥方が神田を寄進した事から、その神田で取れた稲を一晩で醸造する醴を作り、一月十八日の初祭の時に参籠社に振舞われたという祭が行われていました。残念ながらこの祭りは太平洋戦争中に途絶えてしまったそうです。また、藤井神社の境内には役行者の石像が奉安されていて、神仏習合時の香りをかすかに残している神社になります。
「藤井神社」への参拝を終えて、一路北に進路を取り、四国直伝弘法八番札所である「八代山一如寺」を目指します。こちらの寺院は、ネットで下調べしていると、現在は無住の寺院となっていて、四国直伝弘法の納経所が境内ではなく、寺近くの以前はブドウ園の一角、そして住宅地の一角に設置されているというどちらかというと変わり種の札所の寺院として紹介されている感じの寺院ですね。
八代山一如寺
「一如寺」についてみると、ネットで情報が出ていた場所にはアパートが建設されていて、納経所が一如寺の寺号標を兼ねた石柱門の脇に移動されていました。石柱門横の参拝者用駐車場にバイクを止めて境内に進みますが、相変わらず無住の寺院のままのようです。本堂というより方丈といった感じの建物が建っていてるのですが雨戸しっかりと閉じられてしまっている為、参拝、納経をした感じが正直全くしないですね。そんな感じの寺院ですので、四国直伝弘法の御朱印と尾州大府霊場の御朱印はセルフ朱印となっています。
ちょっと残念気持ちになってしまった「一如寺」の納経を終えて、一如寺のすぐ北側に鎮座する「山祇社」を参拝していきます。本日二社目の山祇社です。
山祇社
こちら「山祇社」も先に参拝した山祇社と同様に、この地区の開墾に際し大山祇命を開墾の神として勧請したといいます。江戸時代に入り、開墾、干拓技術が発達し、知多半島の衣浦湾側に面する丘陵地帯の開墾事業も一気に進み、その守護神として山を司る神としてしられる大山祇命が勧請されたのでしょうね。
さて、一如寺と山祇社の参拝を終えて、少し北に進んでいきます。愛知県神社庁が発刊している「愛知県神社名鑑」載っている大府市に鎮座する神社を全社参拝していこうと思い、共和駅の北側に位置する共栄町に鎮座する「神明社」を参拝していきます。
神明社
ここ共栄町に鎮座する「神明社」は追分新田と呼ばれる江戸時代に開墾された地域の産土神として勧請されたのだろうとされていますが、詳しい事は不明となっている様です。残っている棟札には笠寺村西福院の寺名が出てくるそうで、西福院の管理下(別当)の神社であったと思われます。
西福院は笠寺観音の名で知られている「天林山笠覆寺/紹介記事」の塔頭にその名を見る事ができます。現在でも笠覆寺の西門から境内に入ってすぐの左手にあります。
共栄町の神明社を本日の旅の最初の方ではなくこの段階で参拝したのには訳がありまして、知多半島に存在する数多くの霊場で知多半島全体を舞台とする観音霊場は知多西国観音ともう一つ「知多百観音」がありまして、こちらの霊場もすべての札所を参拝していこうと思っていたのですが、四番札所となる「和光山長福寺」がなんと名古屋市緑区桶狭間にあるんです。
まさかの桶狭間・・・。
まあ、色々思案したんですが、せっかく桶狭間に行く訳ですから、桶狭間古戦場を巡って行こうかと思い、ちょっと変わったルートで巡っていました。という事で、ここからは知多半島全部盛りの企画からはかなり外れてしまいますが、桶狭間古戦場巡りへとなっていきます。
名古屋市の桶狭間古戦場伝承地へ
上記の地図で〇で囲んだ場所が名古屋市が桶狭間の合戦の遺構であるとしている場所になります。有名な話ですが、桶狭間という地名は名古屋市と豊明市にまたがって広がる丘陵地域の事をさし、桶狭間の戦いが奇襲戦だったのか正面諸突戦だったのかで今川義元の本陣が置かれた場所とされる場所が変わってくるのです。名古屋市が今川義元の本陣跡とその近くに桶狭間古戦場公園を置いているのは、今川義元の本陣は丘陵上の山の上にあり、そこにめがけて織田軍が攻め上り、今川軍と織田軍が正面衝突戦でぶつかった場所であるという説に基づいています。一方豊明市側の桶狭間古戦場は、田楽狭間とよばれる四方が山で囲まれた場所で今川義元が休息中に、突如山を掛け下ってきた織田軍が義元本陣を襲撃したという長らく桶狭間の戦いと言えば奇襲戦であるという一般に広まった桶狭間戦いのイメージに即した場所であると言えます。
和光山長福寺
知多百観音霊場四番札所となっている寺院になります。門前に置かれた由緒板では弘法大師霊場の札所としても遍路の中で訪れる方が多かったという様な内容が書かれていますが、どの弘法大師霊場の事なのかは不明です。
ここ長福寺は今川義元及び松井宗信の木像が奉安されている事で有名な寺院ですね。
桶狭間合戦の伝承地を巡って行き、次は豊明市にある桶狭間古戦場公園に行こうかなと思った所で、時計をみたら、なんと2時30分を過ぎていました。3時30分までに戻っていないといけないのに、これではギリギリです・・・。知多半島全部盛りと言いつつ、名古屋市緑区に戻ってきたこの度も、次回は豊明市の桶狭間合戦伝承地を巡りながら、知多四国霊場一番札所「清涼山曹源寺/紹介記事」を納経して再び知多半島全部盛り紀行に戻っていきたいと思います。