城跡巡り

長縄城址(西尾市長縄町鍵島)

2018年5月6日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ONE POINT

長縄大河内氏の居城だったと伝えられています。徳川家康の祖父である松平清康が森山の地で家臣に斬殺された時にその遺骸を密かに運び出して長縄の地で仮葬したが長縄大河内氏の大河内小見という伝承があります。

城郭紹介

城郭情報

城郭名長縄城
所在地愛知県西尾市長縄町鍵島地内
築城主初代長縄大河内氏:大河内貞顕か?
築城年不詳
城形状平城
規 模不詳
廃城年不詳
遺 構

文化財

国 宝
国指定
県指定
市指定
町指定
村指定

見学情報

御城印
駐車場〇(公民館駐車場有)
訪問日2018年2月21日

御城印の保管に

 御朱印ブームの柳の下のどじょうではないですが、ある時まさに彗星の如く登場した感のある「御城印」。各神社や寺院で押印してきた御朱印と異なり、各地方自治体が観光PRも兼ねて発行している事もあり、御城印を用意する城址の数がまさに「うなぎ上り」の如く増加しています。
 御朱印帳に記入していただく御朱印と異なり、御城印は基本書置きの物になり、またそのサイズも統一されているわけではないようです。そんな御城印を管理される場合、ポケット型の御城印帳が非常に役に立ちます。御城印を集められる方は是非用意してほしい一冊です。

 

沿革・詳細

 長縄城の築城年、沿革などは不詳。
 築城主は、寺津城主で吉良家家臣であった「大河内氏」によって築かれ、これ以降この長縄城の城主となった大河内氏は長縄大河内氏と称される様になります。

長縄の稲荷社は城址に鎮座!?

 西尾市長縄町にある「稲荷社/紹介記事」を参拝し、その由緒を調べた時、稲荷社が鎮座する場所は元々「大河内小見守」の城があった場所であるという事がわかりました。この大河内小見守の城というのが今回紹介する「長縄城」になるようです。

稲荷社

長縄大河内氏が城主だった長縄城址に鎮座する神社

長縄大河内氏は歴代「小見守」を称していたようで、「大河内小見守系」とも呼ぶことがあるようです。当サイトで「大河内小見(守)」と言えば、この長縄城近くに建つ「観音寺」の境内に建つ「松平清康仮葬地之碑」に纏わる伝承を紹介しない訳にはいきません。

松平清康と大河内小見

 天正四年十二月四日(1535年12月28日)、三河国岡崎城主の松平清康が尾張国西春日井郡森山の地に進軍し、守山城を囲むように布陣した。当時の守山城主は織田信秀の弟「織田信光」であると伝わる。
 翌十二月五日(12月29日)早朝、馬が暴れた事を発端として、清康は家臣「阿部正豊」に殺害(一説には脳天から唐竹割りに両断されたとも。)され、松平軍は総崩れとなり三河に撤退します。

守山城址

尾張進出を狙った松平清康の終焉の地

 清康の遺骸は松平軍の撤退に合わせて岡崎城下に運ばれ、岡崎城北東に位置する場所にある丸山において荼毘に付され埋葬されたというのが「正史」というかそういった歴史だと認識されているかと思います。

 実際、丸山の地には現在徳川家康によって創建された隨念寺が建立され、その境内には清康と妹久子の墓所があります。また、伝承では織田氏・今川氏からの影響を避ける為に密かに丸山の地から遺骸を清康の大林寺に移したとも伝わっていて、大林寺にも清康の墓所があったりします。

 ところが、江戸時代中期から後期にあたる寛政七年(1795年)に現在の西尾市長縄にあたる幡豆郡玉屋畑という場所の土中より一基の「五輪塔」が発掘されます。そしてこの五輪塔には「(松平)清康公」と刻まれていた事からすぐさま江戸城に情報がもたされます。この玉屋畑の地は歴代老中を務めていた「松平伊豆守系」の松平信明が藩主である吉田藩の飛領地の様な場所だった事も幕府に情報がもたらされた要因の一つかと思います。

 幕府としても、松平清康公の遺骸もしくは遺灰は岡崎の「仏現山隨念寺」、その後「拾玉山大林寺」にて埋葬されているとして、この地から出た五輪塔は、この地にて清康公の遺骸を護るために仮葬した地である可能性があるという事で、幕府は毎年観音寺に対し寄進があったといいます。

 ここで、長縄城主だった「長縄大河内氏」の後裔とされる一族にとある口伝があるそうです。その口伝とは「わが先祖に大河内喜平小見という者がおり、松平清康公に仕えていたたという。当家の言い伝えによれば、喜平は、清康公がなくなった時、森山の陣中から、御遺骸をひそかに奉持し来り、同村の観音院に仮に奉納した。」という内容になります。

 この口伝を裏付ける様に「長縄村大河内由来略記」には、「大河内元網の子大河内小見(基高)は長縄城を守り、松平清康が森山崩れで急死した時その遺骨を観音院へ仮埋葬し、本寺である養寿寺で清康の妹矢田姫が焼香した。」と記している。

佛現山隨念寺

松平清康荼毘地に建つ寺

長縄大河内氏

 摂津源氏の末裔と称する大河内氏ですが、源顕綱が以仁王の乱の乱で祖父、父を討たれると三河国の大河内郷に逃げ落ち、この地を本貫とし大河内姓を称したのが始まりとする。承久の乱でこの地に足利氏の一門が地頭職として入国してくると、顕綱は吉良氏に臣従し、家臣として大河内郷から吉良荘に移り住んだようです。顕綱の嫡子「政顕」は大河内氏の宗家として寺津に居館を構え、次男である「貞顕」は分家として長縄に居館を構えたようです。

大河内顕綱┳政顕(大河内宗家:寺津城主)
     ┗貞顕━氏綱━氏長━重氏━貞重━政貞━政治━政時━正信━政利━政倫━政高

 寺津大河内氏と共に長縄大河内氏は吉良氏家臣として長縄の地を治めていたはずなのですが、前述の大河内小見が松平清康の遺骸を長縄の地に運び込んだ際に、福地村誌などでは清康の家臣であると記されています。これは三河を統一した清康は守山城攻めの際に三河国の臣従した勢力に出兵を命令し、吉良氏はこれに応じて兵力を供出、その中に大河内小見も含まれていたのでしょう。松平清康の妹「矢田姫」が吉良氏に嫁いでいたとも言われ、吉良氏の軍勢は松平軍の中枢近くに布陣していた事も考えられ、吉良氏と松平氏の関係もあって大河内小見が清康の遺骸を長縄に運び込んだという事も荒唐無稽な説ではないという事が見えてきます。

 その後、永禄三年(1560年)に三河国を実効支配していた今川義元が桶狭間の戦いで討死すると、それまで今川氏に与していた三河国の豪族の対応が分かれる事に。岡崎城に戻った松平元康(徳川家康)は今川氏からの独立を選び、三河国統一に向けて動き始めます。この動きに対し、東条城の吉良義昭は今川氏に与する道を選び、松平元康と対立する事になります。そして永禄四年(1561年)、藤波畷の戦いにおいて東条城は開城、吉良義昭は家康の監視下に置かれる事になります。その後勃発した三河一向一揆では吉良義昭は一向宗に与し、再び東条城において家康と対立しますが結局再び東条城は落城、吉良義昭は国外追放となってしまいます。これによって鎌倉時代から続いた吉良氏は滅亡となります。吉良家の家臣として松平元康と敵対していた大河内基高は松平氏に臣従し、子孫は紀州松平家の家臣となったと伝えています。

大河内基高

 清康の遺骸を運んだとする「大河内小見(守)基高」は福地村誌によると徳川家康と東条城主吉良義昭との間に永禄四年(1561年)に起った「藤波畷の戦い」において東条城外にて討ち死したと記しています。その菩提を弔う為、駮馬山に建立された塚が「兵道塚」になるようですが(現在は長縄の観音寺に移設されています。)。

 しかし、他の歴史書などでは大河内基高は慶長十七年(1612年)に九十八歳で亡くなったとしており、かなりの食い違いをみせています。

 藤波畷の戦いにおいて、長縄大河内氏の誰かが討ち死にし、その場所に碑が建立されたのは間違いないかと思いますが、福地村誌が伝えるような大河内基高だったのかは他の歴史書などから別人物なのではないかとは思いますが。

兵道塚・徳玄塚

藤波畷の戦いと呼ばれる東条城を巡る戦いで戦死した大河内小見と徳玄の碑

長縄砦(砦址大字長縄にあり境城詳ならず)

大河内氏世々之れに居る。寺津の大河内氏の同族なり。将監政倫に至り吉良氏に仕ふ。政倫の男善兵衛政高亦吉良氏に仕ふ。政高の男基高嗣ぐ。善左衛門基高亦吉良義昭に仕ふ。永禄四年徳川家康登場を攻むるや、義昭能く防ぐ。九月十三日家康自ら馬を進めて小牧に至り兵を督し、本多広孝松井左近小笠原長是等の諸将を遣わし攻む。基高、義昭の宿老富永伴五郎及其郎黨喜三郎と殊死して戦い共に戦死し城遂に落ち吉良氏亡ぶ。基高の長男政綱父の後を嗣ぐ。後家康吉良の浪士にして用ふべきものを取用せんと欲し政綱をして之を選択せしめ七十五人を得たり。家康政綱に謂ひて曰く、汝は即ち鐵中の錚々だるものなりと。即ち政綱を其の組頭とし大久保忠世が隊に編入せり。基高の男正基正澄正憲皆家康に仕える。

愛知県幡豆郡福地村誌

 長縄城の事を記している本が多くなく、詳しい事がわからないのですが、郷土出版社が発刊している「定本 西三河の城」にも諸城として少し説明がありました。

浄土宗西山深草派観音寺本堂裏の境内地に「松平清康仮葬地碑」が建っている。「三河国古城屋鋪部」に、大河内小見、子孫いま紀州列家仕官とある。「長縄村大河内由来略記」には、元網の子大河内小見(基高)は長縄城を守り、松平清康が森山崩れで急死した時その遺骨を観音院へ仮埋葬し、本寺である養寿寺で清康の妹矢田姫が焼香したと記している。元網は家康の母於大を産んだ於富の方の養父と言われている。

郷土出版社発刊「定本 西三河の城」 より

主な清州城主

  • 大河内貞顕
  • 大河内基高

歴史探訪

 長縄城を調べていくと、多くのキーワードに出会う事が出来ました。

大河内基高
 ┣「兵道塚・徳玄塚/参拝記事
 ┗「藤波畷の戦い/紹介記事
・「松平清康公仮葬地之碑/紹介記事
 ┗「泰平山観音寺/紹介記事
・「寺津城/紹介記事

 大河内氏宗家は寺津城を本城としていた一族になります。吉良氏の宿老として大きな力を有していたとも言われています。

訪問記

長縄町の鎮守社である稲荷社周辺が長縄城があった場所という事です。
以前、稲荷社の紹介記事の中でも述べていますが、長縄城の守護神として祀られていた稲荷社が廃城となった後も集落の鎮守の社として祀られていた様です。


神社は集落の南東隅に鎮座しています。
グーグルマップでみると・・・

こんな感じに鍵島という地名周辺に集落が固まっているのがわかります。

遺構などは全くのこってはいないのですが、一説には堀跡を転用して用水路として使用しているそうなのですが、圃場整備などで用水路が付け変わっている可能性もあり、現在の用水路が堀跡なのかどうかは不明です。


歴史探訪次の目的地は?

 長縄城とその鎮守社である「稲荷神社/紹介記事」のすぐ南側にある「松平清康公仮葬地之碑/紹介記事」を見に行ってみたいと思います。

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