2019年2月、サイト名を「神社のある生活って」から「あいちを巡る生活って」に変更致しました。

長縄城址(西尾市長縄町鍵島)

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長縄城

城 名:長縄城
鎮座地:西尾市長縄町鍵島
築城年:不明
築城主:初代長縄大河内氏:大河内貞顕か?
城形式:平城
遺 構:なし
規 模:不明

参拝日:2018年2月21日

沿革・詳細

長縄城は、現在の西尾市寺津地区を本貫地とした大河内家の支族である長縄大河内氏が築いた城になります。大河内宗家初代”大河内顕綱”の息子である大河内貞顕が長縄小笠原家となり、宗家の寺津城近くの長縄地区に城を気付いたのが始まりだろうと推測します。

戦国時代、現在の西尾市の地を納めていたのが吉良家になるのですが、南北朝時代に南朝方だった本家筋となる西条吉良家と北朝側に付き東条城を奪う形で独立した東条吉良家が長い年月にわたり身内同士で争っていました。応仁の乱では西条吉良家が東軍(細川派)、東条吉良家が西軍(山名派)と敵通しとなり、吉良荘の地でも小規模ながら軍事衝突があったと考えられています。

当然、東西にしっかりとした線引きがある訳でもなく、西条側、東条側が入り乱れて吉良荘(現在の西尾市)を全体的に見れば二つの吉良家が収めていた形になります。そんな吉良家の重臣として寺津地域を納めていたのが大河内家になり、その大河内家も宗家は西条吉良家の重臣として、長縄大河内家は東条吉良家に属していたと考えられます。

時は下り、1511年、現在の安城市にある安祥城で一人の武将が誕生します。幼名は竹千代、後の松平清康となります。清康は東条吉良家の当主である吉良持清の偏諱を受けて清康と名乗り、さらに清康自身の姉妹を東条吉良家の吉良持広に嫁がせるほど東条吉良家との結びつきが強く、吉良荘を除く三河地方を1529年に統一します。そんな清康も1535年、織田信秀の本城に肉薄するべく、守山城を攻城中に家臣に殺害されてしまうという事件(通称”森山崩れ”)が発生してしまいます。

通説では、松平清康の遺骸は岡崎市丸山で荼毘に付され、その後、門前町に埋葬され、その後徳川家康によって隨念寺が建立されています。

しかし、この長縄城付近で、1795年、薮の中から「清康公」と刻まれた五輪塔が発掘されました。また、大河内家には「先祖である大河内小見が松平清康公がなくなった時、森山の陣中から、御遺骸をひそかに奉持し来り、長縄の観音院に仮に奉納した」という言い伝えが残っているそうです。


次回は、清康公と彫られた五輪塔が発掘された場所に訪問します。


周囲に敵対している西条吉良家があったりして、この地に松平清康の遺骸を運び込んだとは中々考えられないのですが、真偽のほどはいかがなもんなんでしょうね。

 

現在の長縄城

長縄町の鎮守社である稲荷社周辺が長縄城があった場所という事です。
以前、稲荷社の紹介記事の中でも述べていますが、長縄城の守護神として祀られていた稲荷社が廃城となった後も集落の鎮守の社として祀られていた様です。


稲荷社


神社は集落の南東隅に鎮座しています。
グーグルマップでみると・・・

こんな感じに鍵島という地名周辺に集落が固まっているのがわかります。

遺構などは全くのこってはいないのですが、一説には堀跡を転用して用水路として使用しているそうなのですが、圃場整備などで用水路が付け変わっている可能性もあり、現在の用水路が堀跡なのかどうかは不明です。


 

投稿者プロフィール

成瀬晃ドクターレザーおかざき 店主
愛知県岡崎市で「かばん・くつ✚革の病院ドクターレザーおかざき」を営んでいる成瀬と申します。
史跡、神社などを巡った事をなどをつぶやきつつ、お店のブログではつぶやけないような事も書いていこうかと思っています。

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