古墳名 | 二子古墳 |
所在地 | 愛知県安城市桜井町印内二タ子 |
形状 | 前方後方墳 |
規模 | 全長68.2m |
指定・種別 | 1927年 国指定・史跡 |
訪問日 2019年9月26日
訪問記
県道44号岡崎西尾線沿いにある古墳です。岡崎方面から南下して東海道新幹線の高架をアンダーパスするとすぐ左手にあるこんもりとした丘が二子古墳になります。以前は木々が茂っていてよくわからなかった記憶があるのですが、近年木々の伐採が行われて古墳の形状がハッキリとわかる様になりました。
現在は下草がかなり生えていてよく分からなくなっていますが、以前は伐採された切株だらけでしたね。
二子古墳の南側に、昭和三年に建てられた「史蹟二子古墳」と彫られた石柱が建てられています。正直な所、二子古墳という名前は何となく聞いたことありましたが、車で通りすがりに見るくらいで、どんな古墳なのかも知らなかった訳ですが、今回桜井町を中心に色々な史跡を巡る中で、始めて二子古墳をゆっくりと見た気がします。
桜井町の色々な史跡を巡っていく中、一覧みたいな記事を書こうかなと思って勝手に「桜井町誌」を作成してみました。正直な所、まだ巡っていない場所のが多く、何時完成するのかはまったくもって未定ですが、一度みてやってくださいませ。
二子古墳の沿革
二子古墳は、「桜井古墳群」と呼ばれる安城市桜井町周辺に点在している古墳の中で一番規模が大きく、矢作川流域でも二番目に規模の大きい古墳となっています。(1番規模が大きいのは「正法寺古墳/紹介記事」かな?)形状は、三河地方によくみられる「前方後方墳」という形状の様です。作られた時期は古墳時代前期と推定されるそうです。近くには「堀内貝塚」が発掘されたことから、有史以前からこの辺りには人々が生活し集落ができていた事が想像でき、いつしか古墳の文化がこの地にもたらされて、古墳が作られ行ったのでしょう。
二子古墳を始めとする桜井古墳群の古墳からは埴輪などが見つかっておらず、また推定される古墳の築造時期などから、岡崎市東大友町にある「五十狭城入彦皇子陵墓」との関係があるとする説もそんざいするようです。
時代は下り、養老二年(718年)に桜井戸近くに桜井神社が建立されると、「碧海山」、「二子山」と遷座を繰り返し、弘仁九年(818年)八月下旬に、現在の「比蘇山」に鎮まったとされています。山とついていますが、すべて古墳の墳丘上に鎮座していたと考えられます。なぜに桜井神社は古墳の墳丘上に遷座を繰り返したのかは不明ですが、もしかするとおよそ100年の間にこれだけこの地域を納める氏族が変わったのかもしれませんね。
現在の比蘇山に遷座する前は、今回紹介している二子古墳の墳丘上に桜井神社が鎮座していたとされ、現在では桜井神社の古地として石碑が建っています。
訪問した日は、二子古墳の草刈りなどの整備作業をされていたので、古墳内に入らず、県道沿いから写真を撮影しているので、こんな望遠の写真になっております。
桜井神社は延喜式式内社の比蘇天神の論社となっています。この事から、延喜式が纏められた頃、この桜井は非常に栄えていた場所であった事が推定することができます。古来より西三河の物流の中心は矢作川であり、その沿岸に位置する桜井は人や物資が集まりやすい場所だったのではと考えられます。そういった場所だったからこそこの地を巡る争奪戦が幾度となく行われたのかもしれませんね。そして、前述したように支配する氏族が変わっていったのかも?
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桜井古墳群の古墳一覧
1:塚越古墳(前方後円墳または前方後方墳)、2:東川古墳、3:三ッ塚1号墳、4:三ッ塚2号墳、5:三ッ塚3号墳、6:愛染古墳、7:印内北分1号墳、8:印内北分2号墳、9:二子古墳(前方後方墳)、10:比蘇山古墳(前方後円墳または前方後方墳)、11:山伏塚古墳(前方後円墳)、12:碧海山古墳、13:堀内古墳(前方後円墳)、14:もも塚古墳、15:獅子塚古墳(前方後円墳か)、16:姫塚古墳、17:崖古墳、18:姫小川古墳(前方後円墳、国の史跡)、19:王塚古墳、20:加美古墳、21:八ツ塚古墳。
次はどこにいこうかな?
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古墳名 | 二子古墳 |
所在地 | 愛知県安城市桜井町印内二夕子地内 |
最寄駅 | 名古屋鉄道西尾線「堀内公園」徒歩11分 |