寺院情報
寺院名 | 松尾山 三光院(「小倉山 蓮台寺」山内) |
所在地 | 常滑市小倉町五丁目六十六番地 |
御本尊 | 聖観世音菩薩 |
宗 派 | 時宗 |
創 建 | 正和三年(1314年) |
札 所 | 知多四国霊場 六十七番札所 知多西国観音 十六番札所 知多本国写霊場 三十八番札所(蓮台寺) |
御朱印 | 〇 |
H P | - |
参拝日:2018年7月25日
知多新四国霊場公式ホームページのご紹介
http://chita88.jp/
沿革・由緒
正和三年(1314年)本寺小倉山蓮台寺の末寺として建立され、十七坊中の一院で、鬼門除とされています。
大野城を築城した一色道秀の厚い加護を受けて以来、知多西海岸を領した佐治氏からも寺領を寄進されるのなど寺運栄えたが、栄枯盛衰の世のならい、やがて佐治氏敗退とともに寺院は荒廃し、三光院一坊の残すのみとなった。
「知多四国めぐり」より
平成二十四年二月二十五日、「松尾山 三光院」は本寺である「小倉山 蓮台寺」の山内に移転しています。当然、六十七番札所も蓮台寺内に移転していますので、注意が必要ですね。
蓮台寺の由緒も併せて紹介します。
京都四条金蓮寺末寺として正和三年(1314年)一色道秀の創建とし、等空即轉上人の開山。往昔、後花園院の勅願所にして一山十七坊の巨刹である。その後、一色氏が去った後、大草城を築城本城とした佐治氏から寺領の寄進があったそうです。その後、豊臣秀吉によって寺領が没収され、慶長五年(1600年)に九鬼水軍により堂坊多く灰燼に帰し、往時の壮大な景観は今は見るべくもなく寺宝寺記の如き同く灰燼に帰し今は存在しません。
「尾張国知多郡誌」より
さて、三光院、連台寺の由緒に共に出てくる人物「一色道秀」(他の史料には「一色左京大輔道秀」とも。)なんですが、色々調べても素性がまったくわかりません。
正和三年に大野城を築城し蓮台寺を建立したとありますが、正和三年の一色家の惣領は一色家初代の「一色公深」の時代になります。
一色公深は、地頭として吉良荘の隣"一色郷"を受領し、足利性から一色性に改称した事からわかる通り、足利一門に属し、晩年は足利家の本拠がある関東地方に移ったと言われている人物であり、尾張国、更に言えば知多半島とは所縁がないともいえると思います。
一色家が知多半島に勢力を伸ばし始めるのが一色家五代目当主「一色範光」の時代になってからだと推測しています。一色範光の父「範氏」と兄「直氏」は共に九州探題として九州を主な活動拠点としていました。しかし九州の一色軍が壊滅してしまい、当主を「一色範光」に譲っています。その後、三河守護代に任ぜられています。知多半島は三河国じゃないという声も聞こえてきそうですが、三河国の守護代になるということは、東海道と三河湾の海路を抑える事ができるという事になり、三河湾と伊勢湾の海路をつなぐために知多半島を制圧するという事は十分考えられると思います。そんなかな、一色範光は観応年間に大野谷郷に「大野城」を築城します。そしてこの大野城を拠点に知多半島を制圧していったんだと思います。
上記の事から、「一色道秀」は「一色範光」の事ではないか?という推測が成り立つわけです。そうであれば、大野城を築城した一色範光は、大野城の鬼門除けとして「蓮台寺」を創建した。とまとまるのかなと思います。
また、色々なサイトなどを見ていると「花園天皇」の祈願所となっていたとされている様ですが、建立してすぐに祈願所になるとはあまり考えられず、範光の代に建立された蓮台寺が徐々に寺勢いを伸ばし、一山十七坊と巨刹になったであろう「後花園天皇」の御代に祈願所になったのではないかと。明治時代発刊の尾張国知多郡誌にも「後花園天皇の祈願所」と書かれていますしね。
九鬼嘉隆が大草を攻め込んだ時が、中之坊寺の由緒では小牧長久手の戦いの時で天正十二年(1584年)であったとされていたと記憶しています。しかし、蓮台寺の由緒では、関ヶ原の合戦が起きた慶長五年(1600年)であるとなっています。慶長五年の時は、九鬼嘉隆は息子守隆と鳥羽城を巡って戦っていたはずですので、大草まで攻め込む余力はなかったと思うのですけどね。
知多四国霊場を行く
六十六番地「八景山 中之坊寺」と「熊野神社」を後に、六十七番札所「松尾山 三光院」を目指します。由緒にもでていますが、三光院は蓮台寺内に移転していますのでご注意を。
現在、三光院の跡地の山門に移転先の案内板が張り出されています。
管理人が行く知多四国霊場巡礼の旅
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参拝記
蓮台寺南を流れる前山川を越えた先に大野城跡があります。九鬼軍が大野城を攻め込んだ時、前山川の対岸側にも火を放ったんですね。羽柴秀吉が徹底的に佐治氏の領地をつぶしにかかったのが解ります。
山門
薬医門の山門で左右に境内を囲む壁が伸びています。
大棟部分は非常に特徴的な瓦の積み上げ方ですね。
山門の前には「新四国六十七番」と彫られた札所案内の石柱になります。三光院から移設されたんですね。
手水舎・水盤
瓦葺木造四本柱タイプの手水舎になります。手水舎の大きさに対し水盤が非常に小さいですねえ。
水盤奥には水かけ地蔵が安置されています。
本堂
入母屋造瓦葺平入の向拝の設けられた本堂になります。
こちらの本堂には蓮台寺の本尊である阿弥陀如来像が安置されているそうです。
本堂に掲げられている扁額は、蓮台寺の山号である「小倉山」と書かれています。
三光寺本堂
こちらが蓮台寺境内に移転された三光院の本堂になります。
中央には常滑市の指定文化財になっている聖観世音菩薩が安置されています。
ただ、社殿配置を見ると、三光院自体が弘法堂として見られてしまっていないかな?と思ってしまいますね。・・・いやもしかしたら、知多四国霊場や知多西国観音を巡礼されている方の中にはこの境内全体が三光院だと思っていらっしゃる方もいるかのやもしれません・・・。
本尊は厨子の中に安置されているのか、厨子の前に建つ観音様が本尊なのか・・・
その観音様の隣にたつ不動明王も非常に目を引きます。
弘法大師像は本尊の右側(むかって左側)に安置されています。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
寿山塚
蓮台寺の境内には、初代大野城主「佐治駿河守宗貞」の墓だといわれている寿山塚があります。佐治宗貞は、法名を齊年寿山といい、自信が建立した齊年寺に葬る事もできたが、自身の主君でもあった一色左京大輔道秀が建立した蓮台寺に葬ることを希望したといわれています。
御朱印
参拝を終えて
この蓮台寺には、徳川秀忠の正室である「お江の方」に所縁のある寺院ともいわれています。
大野城が落城した時、お江がこの蓮台寺に逃げ込んだともいわれていて、「勅使門」と呼ばれる門を内からかたく閉ざして奥へ入り身を隠したという。その時から「開かずの門」といわれ、一度も開けたことのない門だといわれているそうです。
さらにこの開かずの門の寺内側にある松は「衣掛の松」と呼ばれています。お江が蓮台寺に逃げ込んで門を閉めた後、外には追手が迫っている様子だったので、着ていた衣を境内の松の小枝にかけて井戸に投身の如く死を装い、敵を欺いて、落ちのびたという。それからこの松を衣掛の松というようになったと言います。
実際の所、お江が大野城にいる状態で秀吉も軍勢を差し向けることはないかなと思うので、佐治氏に近しい方の逸話だとはおもうのですが、お江の伝説ではないような気がするんですが、真実はどうなんでしょうね。
次の目的地は
六十七番「松尾山 三光院」を後に、次は「龍王山 宝蔵寺」に向かいます。