松平太郎左衛門家

松平太郎左衛門家とは?

 江戸時代を通じて編纂された歴史書では松平泰親の嫡子であると言われてきましたが、近年の歴史研究により、松平親氏の嫡子なのではないかと言われている「松平信広」から続く一家が松平太郎左衛門家になります。初代親氏、二代泰親共に"太郎左衛門"を称しており、太郎左衛門を継いだ信広が松平宗家を継いだと考えることもできます。
 泰親より岩津郷を継いだ弟である「松平信光」は松平家の武装化を進め武家として領地拡大の道を歩むことになっていきますが、松平郷を継いだ信広は、祖父「在原信重」、父「親氏」がそうであったように、庄屋としての道を歩んでいったのではないかと思います。それ故、信光やその子供たちが急激に領地を拡大し西三河を代表する「国人」に成長していき、更にその子孫は戦国大名へとなっていったのに対し、松平太郎左衛門家は基本松平郷周辺から出る事はなく、むしろ松平郷から近い「大給城」を本城としていた大給松平家の影響が非常に大きかったと言われています。

 いわば土豪として松平郷を治めてきた松平太郎左衛門家ですが、九代「松平尚栄」の時に、関ケ原の合戦、大阪の陣に家康軍に従軍し軍功を挙げた事から、改めて松平郷450石の領地が与えられこの時初めて松平太郎左衛門家も武家として領地を得て、江戸時代を通じて交代寄合の旗本として存続していくことになります。

 大正時代まで「松平館」に住んでいたそうですが、その後東京に移住し、使われなくなった松平館の跡地を造営、松平東照宮の境内地となっていますが、当時の石垣など旗本の館跡の遺構は現在まで残されています。

 有力な松平一族を十八松平とか十四松平と総称して呼ぶことがあります。江戸時代に編纂された歴史書でもそうやって呼んでいる物があります(改訂三河後風土記など)。残念ながら十八松平に名を連ねる一家は松平信光の岩津松平家から分家した有力な一家をまとめた物であって、岩津松平家の分家どころか本来は宗家筋である太郎左衛門家は十八松平という総称に含まれません。

松平太郎左衛門家系図

在原信重 
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親 氏  泰 親
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信 広  信 光
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長 勝
 ┃
勝 茂
 ┣━━━━┓
信 茂  信 吉
      ┣━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━┓
      某   親 長            重 正  親 信
           ┣━━━━┓         ┃
          重 長  由 重       正 成
                ┣━━━━┓    ┃
               尚 栄  信 晴  信 貞
                ┣━━━━┓    ┃
               信 正  重 和  信 久
                     ┃    ┣━━━━┓
                    信 和  信 重  親 貞
                     ┣━━━━┓    │
                    和 通  親 貞 ──┘
                          ┣━━━━┳━━━━┓
                         尚 澄  信 村  澄 平
                          ┣━━━━┳━━━━┓
                         親 相  信 乗  親 應
                          ┃
                         信 乗
                          ┃
                         信 言

松平太郎左衛門家菩提寺

高月院 

 松平郷内にあり、松平親氏、泰親、信光の三代の墓所がある事で有名な「本松山高月院/紹介記事」の境内に、太郎左衛門家九代:尚栄、十代:重和の墓石があります。

晴暗寺

 松平郷から西に少し離れた林添に松平太郎左衛門家三代:信広、七代:頼長、八代:由重の墓石がある晴暗寺があります。元々は三松庵と呼ばれていましたが、松平太郎左衛門家十一代:松平信和が堂宇などを寄進し中興開山し晴暗寺と改称したといいます。

松平太郎左衛門家墓所

 高月院を眼下に見下ろすような場所に松平太郎左衛門家の墓所が作られています。十一代:信和からの歴代当主の墓石が並んでいます。