城跡巡り

清州城址(愛知県清州市朝日城屋敷)

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ONE POINT

織田信長の居城として知られている愛知県清須市にある清州城の紹介です。愛知県下十名所投票戦21位

城郭情報

城郭名清州城
所在地愛知県清州市朝日城屋敷1番地1
築城主斯波義重
築城年応永十二年(1405年)
城形状平城
規 模
廃城年慶長十五年(1610年)
遺 構土塁
移築現存櫓(名古屋城:御深井丸西北隅櫓)
良福寺山門(春日井市)
含笑寺山門(名古屋市)
長久寺山門(名古屋市)
萬徳寺山門(稲沢市)
御城印
駐車場
訪問日2022年2月16日
愛知県下新十名所21位/得票数 100,750票

沿革

 清州城は、室町時代の応永十二年(1405年)に時の尾張守護「斯波義重」によって尾張守護所「下津城」の別郭として築城されたと伝えられている。

斯波義重とは

室町幕府管領、越前・尾張・遠江・加賀・信濃の守護職

 室町幕府三代将軍「足利義満」による寵愛を受け、猶子となり名を「義教」と改めている。(その後、六代将軍が足利義宣が足利義教に改称した事から、室町時代に編纂された書物の中では「斯波義重」の名で記載されている)

  • 建徳二年/応安四年(1371):生誕
  • 応永五年(1398年):越前国守護職
  • 応永七年(1400年):尾張国守護職
  • 応永十二年(1405年):管領職、遠江国守護職
  • 応永十六年(1409年):管領職を辞す
  • 応永二十五年(1418年):死去

 斯波義重が越前守護として越前国二宮である「織田社」を参拝した際、同社神職の子息が非常に聡明出会った為、その子息を自らの側近としたという。その後、義重が尾張国守護職を兼任すると、尾張国内に所領が与えられ、故地から「織田常昌」と称し、尾張織田家の租となったという。

 元々は前述の通り尾張国の守護所である下津城の別郭として築城された清州城だが、文明八年(1476年)に下津城が焼失すると、清州城が守護所となる。その後、尾張守護代であった織田氏は、主家である斯波氏が応仁の乱などにより勢力が失墜すると代わりに尾張を支配していく事になっていくが、この織田家も内部抗争が起こり、清州城は尾張国下四郡を支配する織田大和守家の居城となっていく。

 弘治元年(1555年)、織田信長と結んでいた織田信秀の弟「織田信光」よって清州城主「織田信友」が殺害され、その後織田信長が清州城に入城、改修をしたうえで小牧山城・岐阜城へ移るまでの約十年間本城とした。

 織田信長が天正十年(1582年)に本能寺に於いて明智光秀によって撃たれると、山崎の合戦後に清須会議が行われ、尾張国伊勢国は信長次男「織田信雄」が相続し、大改修の上本城とした。その後、小田原征伐後、豊臣秀吉の国替え命令に逆らった織田信雄は減封となり尾張国は豊臣秀次、そして福島正則が領主となり清州城を居城としていきます。

 関ヶ原の合戦後、尾張国は徳川家康四男「松平忠吉」の所領となるが、慶長十二年(1607年)に急死すると、その所領は家康九男「徳川家直」が引継いだ。

 慶長十四年(1609年)、徳川家康による名古屋城築城の命令が下され、清州城は城下町と共に名古屋城下に移される事になる(清州越し)。清州城は名古屋城築城の資材として解体され、慶長十八年(1613年)名古屋城の完成と伴い正式に廃城となった。

主な清州城主

  • 織田信友:不明ー弘治元年(1555年)
  • 織田信長:弘治元年(1555年)ー永禄六年(1563年)
  • 織田信雄:天正十年(1582年)ー天正十八年(1590年)
  • 豊臣秀次:天正十八年(1590年)ー文禄四年(1595年)
  • 福島正則:文禄四年(1595年)ー慶長五年(1600年)
  • 松平忠吉:慶長五年(1600年)ー慶長十二年(1607年)
  • 徳川家直:慶長十二年(1607年)ー慶長十八年(1613年)

訪問記

 名古屋市から清州市を縦断している県道190号線の五条川を渡河する「清州橋」から西を望むと清州城の模造天守を望むことができます。東海道本線や東海道新幹線などの車窓からもよく見えるあの天守閣です。

 駐車場はストリートビューで紹介している駐車場が一番天守閣からは近いのですが、停められる台数が少ない為、観光シーズンや土日は五条川を挟んで反対にある清州公園駐車場に向かった方が確実に駐車できるかと思います。

 自分はバイクで巡っている事もあって、駐車台数なんて気にせずにストリートビューで紹介している駐車場に向かって、一番隅に駐車して清州公園を目指します。現地にあった地図とかを見てると、清州城の本丸自体は五条川の対岸にあったようで、この場所に天守が建っていた訳ではないようです。

 正面側に廻ってみました。

 清州城の天守については資料が残っているわけではないので、桃山時代を想像してデザインされた城なんだとか。何となく全体のイメージは豊臣秀吉の時代の天守閣のイメージなのかな?って思います。信長の天守閣はよくわかりませんが、豊臣秀吉または配下の武将達の築城した白の基本は「黒色」、徳川家康が建築を命じた「天下普請」によって築城または改築された城の基本は「白色」だったりします。で、この清州城を見ると漆喰となる部分以外は黒色となっている所からも秀吉時代の城郭をイメージしているのかな?って思う訳です。

 五条川に架けられた人道橋からの清州城天守閣の眺めです。晴れているともっときれいに撮影できたんでしょうが、なにせ訪問した日が所々晴れ間が見えますが基本曇天だったので、こんな感じで薄暗い写真となってしまっています。

清州城公園の方に向かってみると、人道橋近くに

 清州古城趾と彫られた石柱がありました。そういえば、清州城下町遺跡という清須市指定史跡はあるのですが、清州城趾としては清須市の史跡指定は受けていないみたいですね。

 もう一つ、清州城趾を示す石碑がありました。「右大臣織田信長公古城趾」と彫られていますね。この石碑の横には

 「織田信長公お社」と現地案内板に書かれていた社が鎮座しています。その名の通り織田信長公を御祭神としている神社なのでしょうか。

さらに、清州城趾といえば・・・

自分の中で清州城といえばこれ

 この織田信長公のブロンズ像ではないでしょうか。清須市にある酒蔵が販売している「鬼ころし」っていうお酒のテレビCMで背景にこの銅像が写っていていました。CM自体は「酒は清州城、信長、鬼ころし」とナレーションが流れるシンプルなものだったんですが、何故か今でも思い出すほど印象に残っていますね。

皆さんはいかがでしょうか?

 現地に行って初めて知ったんですが、この織田信長公のブロンズ像の脇には、織田信長の正室「濃姫」のブロンズ像も据えられていました。実像がまったくわからない謎の女性「濃姫」のブロンズ像はここだけなのでは?

所在地を地図で確認

城郭名清州城
所在地愛知県清須市朝日城屋敷一番地一
最寄駅電車:名古屋鉄道 名古屋本線「新清洲駅」徒歩15分
バス:きよすあしがるバスオレンジルート「清州城バス停」徒歩1分

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