第二章:松平家初代「松平親氏」

親氏君坂井郷御男子出生付松平郷御転居の事

 世良田二郎三郎親氏君は後に松平太郎左衛門と称させる。有親君の御子なり。時宗の僧と身を変じ、徳阿弥と称して、三河国におはしける頃、西三河坂井郷に五郎左衛門という豪民あり。親氏御容貌凡人ならぬをみて「我に女子一人あり。願わくば聟(婿)として家をゆづらん。」といふ。親氏御承知ありしかば、やがて迎取て、其娘にあはせ家をゆづる。
 其娘の腹に男子出生す。後に小五郎親清(広親)といふ。この小五郎が子孫繁昌して、酒井家と称し、徳川家佐命の功臣となる。親氏君元来智略父祖にもこえて、其上仁心ふかかりしかば、近郷近村の百姓ども、なつきしたがふ事かたならず。しかも酒井の豪富の家をつぎ、財貨充実ければ、飢民を救ひ、貧者を賑はし給ふ故、近郷の者ども、領主の如く帰服せり。然るに五郎左衛門の娘は、小五郎を産みける後病死しければ、親氏寡住しておはしける。
 ここいまた同国松平村に、「松平太郎左衛門信重」とて、是も富豪の庄屋にて、財宝ゆたかに一族広く、何に付けても不足なく、家屋けれども、女子一人の他男子なし・諸方より聟にならんと望む者多しといえども従はす。一族を養子とし家を譲るかと思へども、更に其沙汰なし。女子は二十五歳に至れども、縁組せず。或時太郎左衛門は徳阿弥を招き、種々饗応して後、ひそかに申しけるは「我今貴殿の容体を伺ふ所凡人ならず。其骨法必興家治国の祖あり。定めて由緒正しい御人なるべし。某は氏もなき賤民なれども、家富て不足なし。但女子一人あれど男子なし。願わくは貴殿還俗あり、聟となり給はば家は直に譲り進らすべし。」という。
 徳阿弥聞給い「いかにもその詞に従わん。」と仰せあり。ただちに還俗して松平の郷に移り給へば、信重は徳阿弥を聟にし、其身は隠居して家をゆづる。仍て是より「松平太郎左衛門親氏」と名乗給ひ、酒井の郷をば先腹の子小五郎親清(広親)に譲り給えは、小五郎は坂井を酒井と改めたり。親氏は信重が女子のはらに出生ありし男子、泰親君を松平の家督と定めあっれ、小五郎は庶兄と称し、御家の執事とはなりけるとぞ。
接するに松平太郎左衛門が程普をはじめ其余諸書にも、泰親君は親氏君の御弟なりとす、これまた一説也。

改訂三河後風土記(上)より

 大浜称名寺に滞在していた「徳阿弥」に転機が訪れます。三河国坂井郡(碧海郡酒井郷または幡豆郡坂井郷)に住む「酒井五郎左衛門」が徳阿弥の姿を一目見て「只ならぬ人だ」と見定め、「私の娘の婿になってくれないか。そうすれば家督を譲りましょう。」と直談判したとあります。

 ただ、この時「徳阿弥」は還俗することなく酒井家に婿に入っている様なのです。室町時代、妻帯を認めていた宗派は浄土真宗のみで、時宗の僧侶であった徳阿弥は本来でしたら妻帯は許されない立場だった訳です。さすが、生粋の僧侶ではなく室町幕府鎌倉府の追っ手から逃げる為だけに清浄光寺にて剃髪したという人物だというべきでしょうか・・・なまぐさ坊主感が満載です。

 酒井郷が現在の刈谷市西境町/東境町辺りなのか、西尾市吉良町酒井辺りのどちらを指しているとは思うのですが、三河後風土記では三河国坂井郷としているだけでどちらかは書いてはいないです。ただ、この辺りは譜代家臣酒井氏の発祥にも関わってくるポイントでもあります。

 酒井郷に入郷した徳阿弥は五郎左衛門の娘との間に一子をもうけます。しかし、出産時または産後しばらくして五郎左衛門の娘は亡くなったとし、その後は徳阿弥と子は義実家となる酒井家に居していたとあります。ただ、最初の話の通り、酒井家の家督を継いでいた様です。どういった家業の家だったのかは不明ですが、単純に文章を読む限りでは豪商ともいえる家柄で、商いの利潤で貧しい人を救ったとして人望を集めていたとしています。

三河国坂井郷を追う

碧海郡酒井郷

 はっきりとした酒井氏伝承地であるという痕跡は残っていません。しかし、東境町にある「児塚」は徳阿弥が酒井郷から松平郷に移る時に子供との別れの際に形見として据えた塚という伝承が残されており、「寂静山泉正寺」には定説となった伝承とは少し異なり、「神谷興四郎という人物を訪ねてこの地にやってきた徳阿弥は興四郎の娘「おこん」に惹かれ、結婚し一子をもうけたが、おこんは子がまだ稚児の時に亡くなってしまった。」と伝わっていて、この伝承に出てくる「おこん」の墓石が安置されています。※その隣には徳阿弥の母「高岳院」の墓石もありますが、真偽のほどは・・?。近くの丸山城の城主に酒井氏の名が見られることから、酒井郷を支配した「酒井氏」は確かに存在したみたいですが、松平家と血縁関係を持つ関係であったのかは不明です。

幡豆郡坂井郷

 幡豆郡坂井郷には、酒井氏発祥の地とする案内板も設置され、集落の南側に酒井一族の墓所があります。この墓所には酒井五郎左衛門、その娘、酒井広親、そして徳阿弥の父「長阿弥」の墓石が並んでいます。さらに、現在は廃寺となっている「本命山誓覚寺」の墓所には酒井五郎左衛門の娘の墓石が安置されています。

 どれほどの時間が過ぎたのかは不明ですが、徳阿弥の元に三河国松平郷の「松平太郎左衛門信重」が訪ねてきて、「娘が二十五歳に至れども縁組せず。”還俗して”娘の婿となったら松平家の家督を譲ろう。」とし、徳阿弥は信重の申し出を受け入れ、直ちに還俗し「松平太郎左衛門親氏」と称して松平郷に向かったとしています。

 ただでさえ時宗の僧侶のままの身分で酒井氏に婿養子に入っているはずなのに、再婚の話があるとすぐに同意して、子供を義実家に預けた上で義実家を飛び出て新たな婿入り先に向かったという今の感覚だったなまぐさ坊主どころか”ひとでなし”と叩かれそうな伝承ですが、室町時代、江戸時代ではこういった事は普通だったんですかね。

 三河国松平郷に入郷した松平親氏は、松平信重の娘を娶り、入婿として松平氏を継ぎ松平郷の領主となっていきます。男子をもうけ、この男子は元服すると松平泰親となります。
 酒井郷に於いてきた男子は元服して酒井小五郎広親となり、松平郷を訪ねてきた時に親氏は「今は松平の姓であることもあり泰親を嫡子とし、広親は庶長子として泰親を支える様に。」と命じたとされています。

 改訂三河後風土記では大浜称名寺から酒井郷、そして松平郷に移り住んでいく年月を一切記載していません。その為、松平家と酒井家の関係を記してはいますが、松平泰親と酒井広親の異母兄弟が何歳年が離れていたのかも不明になっています。

 そして、松平泰親は親氏の弟であるいう説もあると紹介してこの段は閉められています。松平郷に入郷してからの親氏の動向については、全く触れられておらずこの辺りは次段で取り上げられています。

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