西尾市下永良地区にある松平好景討死の碑を紹介しましたが、今回はその繋がりで・・・松平好景の首塚であると伝えられる向野墓所をご紹介します。
松平好景討死の地についての記事は上記ブログカードからご覧ください。
向野墓所
深溝松平氏の菩提寺である本光寺なんですが、元々はこの地にあったそうなのですが、徳川家康の関東移封の際、深溝松平氏と共に本光寺も関東に移ったんだとか。関ヶ原合戦後再びこの地に深溝松平氏が戻ってきた時、現在の地に本光寺も移ってしまった為、この地は再び墓所としては使われることは無かったそうです。
では、なぜにこの地に深溝松平氏の初代"松平忠定"と二代目"松平好景"の首塚と呼ばれる碑が建っているのか?。現地案内板には、六代目"松平忠房"がこの地を訪れた際、深溝松平氏の祖先に大切な地であるという事で、この地に植えられていた二本の松と共に大切に管理されてきたんだとか。
現在の本光寺にも好景の墓があるので真偽のほどは不明ですが、一説には首塚と言われる通りにこの地に好景の首が眠っているんだとか。
現在では写真の通りかなり明るい雰囲気ですが、案内板の写真を見ると、昔はもう少し薄暗い感じの場所だったのかな。
松平忠定が深溝城を落として以降、深溝松平氏と呼ばれるようになり、この地に菩提寺となる本光寺をこの地に建立します。初代忠定は長寿と言われていますが、二代目"好景"はこのブログでも何度も出てきますが、対吉良氏との善明堤の戦いで戦死、三代目"伊忠"は長篠の合戦で戦死してしまいます。さらに四代目"家忠"は関ヶ原の合戦の前哨戦ともいえる伏見城の戦いで、鳥居元忠らと共に玉砕しています。
徳川幕府が開府されるまでの間に三代も戦死してしまっている深溝松平氏は徳川宗家からも忠義の譜代と認識されていたのか、島原の乱鎮圧後の島原藩主に任ぜられ、途中宇都宮藩に移りますが、再び島原藩に戻り、明治維新を迎えています。
次回は、深溝松平氏の菩提寺である本光寺を紹介したいと思います。