寺院情報
寺院名 | 神前山 了運寺 |
所在地 | 愛知県知立市西町西八十四番地一号 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗 派 | 浄土宗 |
創 建 | 不詳 |
札 所 | 知立三弘法 二番札所 |
御朱印 | 頂いた方がいらっしゃる様です。 |
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参拝日:2019年1月9日
沿革・由緒
開創時期は不詳ですが、一説には知立神社の別当寺院として神宮寺七坊として開創したのが始まりと言われています。元々は天台宗だったのですが、明応二年(1493年)に浄林了運大和尚により天台宗から浄土宗に改宗し、寺名も了運寺と改称。明治時代に入ると神宮寺は破却され、仏像、仏具は了運寺に運ばれたと言います。その後「総持寺」が再興し、仏像・仏具は「総持寺」に移動したそうです。
神宮寺七坊として創建されたとなると、知立三弘法一番札所「亀岳山 宝蔵寺」と同じく、喜祥三年(西暦850年)に慈覚大師によって当時天台宗として創建されたという事でしょうね。
知立三弘法を行く
宝蔵院と違い、天台宗→浄土宗に改宗した了運寺なんですが、どういった経緯で弘法大師像を安置するようになったのかは不明です。しかし、今では弘法堂の前に「知立三弘法 二番札所」と彫られた石碑が建てられていて、三札所の中で唯一「知立三弘法」の存在を表示している寺院になります。
旧東海道沿いに鎮座していている為、東海道を歩いている街道ウォーカーの方の中にはもしかしたら記憶に残っていて、「あぁ~あそこの寺院ね」 と言って頂ける方もいらっしゃるかもしれませんね。
参拝記
宝蔵寺と了運寺などの位置関係を地図に記載してみました。
東から伸びてきた東海道は知立城を回り込むように西に延びていきます。
そして、東海道が曲がっている所にから知立神社への参道が伸びていきます。
境内入口
潜戸が設けられた袖壁のある鐘楼門の山門になります。
山門の前に、「タイ国渡来 釈迦如来像 安置」と彫られた石柱があります。小乗仏教の国から大乗仏教の寺院にお釈迦様がやってきたわけですね。
手水舎・水盤
瓦葺木造四本柱タイプの手水舎になります。
本堂
寄棟造瓦葺平入の向拝の設けられた本堂になります。浄土宗の本堂らしく、廻縁が設けられていますね。
本堂前の松の枝ぶりが見事で、正面から見るととても絵になります。
庚申堂
庚申さんとして祀られている「青面金剛像」が安置されている庚申堂です。
庚申信仰は日本全国に広がっていて、ここの庚申堂のように、青面金剛像が祀られている場所から、「庚申」と彫られた石碑を祀っている場所まで、様々な形で信仰されています。
家の近所にも庚申信仰の形跡が見つかるかもしれませんよ?
三十三観音堂
観音堂と称していいのかは微妙なんですが、境内の外周に設けられた壁を利用して、西国三十三観音の移し観音堂が設けられています。境内に入ったことが無い人は、まさか壁の境内側が観音堂になっているなんて想像もできないでしょうねえ。
法要之塔
浄土宗に改宗して五百年を記念して法要塔が建立されています。その前には延命地蔵尊が安置されています。
この法要之塔とは一体どういった石造物なのかな・・・。
大師堂
了運寺の大師堂は、境内の中ではなく、旧東海道に面する形で設けられています。
弘法大師の月命日の日には扉が開けられているそうなのですが、このように扉が閉められてしまっていると、大師堂なのかまったくわからないですね。
しかし、了運寺の大師堂の前には・・・
この石碑が設けられています。質感から結構最近設けられた石碑な感じです。
というか、この石碑以外で知立三弘法を知る場所はないんですよね・・・。この石碑を見落としてしまったら知立三弘法も知ることはないわけで・・・、中々貴重な石碑だったりします。
参拝を終えて
三河新四国霊場一番札所になっている「総持寺」は一旦破却され、仏像などがここ了運寺に運ばれていたんですね。神仏分離令による神宮寺の廃寺によって「総持寺」は廃寺となりますが、「了運寺」は廃寺になっていない所を見ると、浄土宗に改宗している時点で神宮寺からは離脱したという事なんでしょうかね。
次の目的地は
次は、三番札所「福聚山 慈眼寺」に向かいます。