歴史紀行

刈谷市にある酒井氏発祥の伝承地を巡ってみた

2021年1月29日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

酒井氏を追ってみよう

 以前、岩津譜代という松平氏古参譜代に数えられる「酒井氏」の発祥の地とされる西尾市吉良町酒井にある酒井氏一族の墓などを紹介しました。しかし、酒井氏発祥の地であるという伝承が残る地域がもう一ヶ所あり、これが三河国碧海郡酒井郷・・・現在の刈谷市西境町、東境町周辺になるんだそうです。というか、酒井氏発祥の地などでをGoogle先生に聞いてみると、碧海郡酒井郷の方が多くヒットしてくるので、これはぜひ訪問せねばという事で、2021年1月27日というコロナ禍による緊急事態宣言発令中の中、こっそり巡ってきました。(結論から言えば、途中誰ともすれ違う事もなく、さらに寄道もする事なく真っ直ぐ帰宅してまいりました。)

 碧海郡酒井郷は尾張国と三河国の境界河川である境川の東岸にあり、現在では東海環状道の豊明インターと豊田南インターの間の高架が直ぐ近くに作られ、境川を超えると豊明市。そんな場所になります。

酒井神社

愛知県刈谷市西境町本郷七番地一
GoogleMap(こちら

 そんな刈谷市西境町にその名も「酒井神社」が鎮座しています。三河国神名帳に「従五位上 酒井天神 坐 碧海郡」と記されている神社があるのですが、江戸時代までは一ノ御前社と称していたそうで、神名帳記載の酒井天神の論社ではなさそうな感じがします。

 西境町、東境町を廻ってみて、「酒井氏発祥の地」であると分かるものは、酒井神社の参道入口に設置された刈谷市教育委員会による案内板の最後にこういった伝承が残ると書いてあるだけで、特にアピールしていることも無さげな様です。

 酒井神社の東隣には、曹洞宗の寺院「永福寺」が建っています。こちら永福寺には、境内東側より出土された「道祖神像」と「池大雅木額(秋葉殿)」が刈谷市の指定文化財となっています。「池大雅木額」って何だろうって思ったのですが、Google先生に聞いてみると「いけのたいが」と読むようで、江戸時代の画家・書家なんだそうで、作品には国宝に指定されている物もあるなど、かなり有名な方だったみたいです。しかし、肝心な寺歴などは手元の資料には記載された物がなく、図書館に調べに行く必要があるようです・・。

大宝山永福寺

愛知県刈谷市西境町御宮九一番地
GoogleMap(こちら

 門前に据えられていた案内板によると、創建は文亀二年(1502年)だそうで、元々は鎌倉街道沿いにあったそうです。

 鎌倉街道といえば、豊田市中田町と刈谷市一里山町の市境辺りを鎌倉街道が通っていて、そこから刈谷市東境に鎮座する「祖母神社」の境内横に繋がり、境川を渡河していったとされ、鎌倉街道の碑がこの辺りには何ヶ所か建てられていたりします。
 この鎌倉街道沿いに据えられた「児塚」がひっそりと刈谷市東境町にあります。

 現地には案内板などまったくなく、正直この児塚を探すのに非常に苦労しました。でも、この塚が碧海郡酒井郷に残る酒井氏発祥に関連する数少ない史跡の一つだったります。酒井氏を追いかける方には是非探し当ててほしい塚ですね。

 どんな由緒のある塚なのか?

 室町時代末、東国から逃れてきた時宗の遊行僧長阿弥(有親)・徳阿弥(親氏)父子は、地元の豪族酒井氏のもとに身を寄せた。
 有親の死後、酒井氏の娘婿に迎えられて親氏は、家督を譲られた上に一子をもうけた。 しかし、その後親氏はわけあって松平氏の養子となり、松平村へ移ったため、親氏とその子の永別の形見として「児塚」を築いたという。

 まさに「酒井氏は松平氏庶家」とであるという伝承そのままな由緒を持つ塚の様ですが、ネットで色々調べていると、どうも上記とは違う由緒が残されている様なのです。抜粋で紹介すると、

 長阿弥(有親)・徳阿弥(親氏)父子は連歌での友人である神谷興四郎を頼って碧海郡酒井郷にある「寂静山泉正寺」を訪れたという。(当時は時宗の道場だったとも。)
 神谷興四郎には”おこん”という娘がおり、徳阿弥(親氏)との間に一男をもうけます。この男子の名を広親といいます。
 しかし、おこんは早くに亡くなってしまったこともあり、徳阿弥(親氏)は松平郷に向かう事になり、子と親の別れたという場所には「児塚」が据えられています。

 パッと見は似たような伝承なんですが、大きく異なるのが、酒井氏ではなく、神谷氏を頼ったとなっている点と、娘の名前が出てくる点になるかと思います。しかも!娘「おこん」の墓石が泉正寺にあるというではないですか。

 その「おこん」の墓石となる五輪塔が泉正寺の本堂脇にありました。寺伝では、二基の内ひとつは親氏の母「高岳院」になるんだとか。ただどちらがどちらの五輪塔なのかはわかっていないそうです。

 泉正寺から南に進むと、酒井氏が居していたという「丸山城」があります。遺構が残っていない為、その規模は全く解らないのですが、酒井氏に纏わる伝承から考えるに城というより、館跡といった方がしっくりくる感じがします。

丸山城

 刈谷市東境町丸山の地に「酒井与左衛門」が居していたという「丸山城」が存在していたといいます。境古城、境村古城、人夫城とも呼ばれたそうです。現在では周囲は宅地化、農地化の為、遺構は残っていません。

 上記が2021年1月現在で自分が知りえた碧海郡酒井郷に残る酒井氏発祥の地の伝承の史跡になるわけですが、さてどちらが伝承の地なのでしょうか・・。色々調べていくと、最初は碧海郡酒井郷にいたがその後幡豆郡坂井郷に移り住んだという両方の伝承地を網羅する説も見つけてしまいました。
 ただ、身も蓋もない話をしてしまうと、酒井氏初代「酒井広親」は松平親氏の庶子だったという酒井氏発祥の系図は仮冒であったと現在ではほぼ断定されてしまっており、そもそも親氏が酒井氏の娘婿となった事は無かったようです。

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