歴史紀行

酒井氏発祥の地と金蓮寺

2019年2月7日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

酒井氏発祥の地

愛知県西尾市には、徳川家康の筆頭家老である酒井忠次で有名な酒井氏発祥の地とされている場所があります。
それが西尾市吉良町酒井という場所になります。

まさに、酒井氏発祥の地をアピールするように地名が「酒井」になっていますが、酒井氏発祥の地とされているのがこの吉良町酒井でも矢崎川の西側の集落があるあたりだと言われています。

酒井氏とは?


徳川家康の筆頭家老である「酒井忠次」は一度は聞いたことある武将名ではないかと思います。徳川四天王にも名前を連ねていますしね。そんな酒井氏と徳川氏(松平氏)の関係は、松平宗家初代「松平親氏」までさかのぼることになります。(この松平親氏という人は、実在した人物なのかどうかが疑われています。なんでも、徳川家康が征夷大将軍になる為に、家系図を書き換えて世良田氏との関係を繋げるために作り上げられた想像上の人物ではないかと言われています。)

徳川氏の先祖「松平親氏」は上野国得川(現在の群馬県)にいた新田氏の一族で、応永の頃(1394-1428年)父有親と共に世を避けて諸国を旅し、相模国藤沢の時宗総本山である遊行寺で僧となり、有親は「長阿弥」、親氏は「徳阿弥」と称した。その後、三河国の大浜(現在の碧南市大浜地区)の称名寺(他説では矢作の光明寺)に住み、長阿弥はその地で没したという。
その後、徳阿弥は還俗し親氏となり、酒井の五郎左衛門の婿となり、一子をもうけた。これが酒井与四郎広親であり、酒井氏の始祖とされる。
親氏は、室であり広親の母が早世した為、広親を酒井に残して、加茂郡松平郷に移り太郎左衛門信重の婿養子となり、松平氏の始祖となったと言います。
酒井広親もいつの頃からかは不明ですが、松平氏に仕え、重臣として用いられています。

そして、この吉良町酒井の地には、酒井先祖の墓として、「長阿弥(松平親氏の父)、五郎左衛門(酒井広親の祖父)、松平親氏の内室(酒井広親の母)、酒井広親」の墓が集められた場所があります。また、東条吉良観音二十二番札所の誓覚寺があり、この誓覚寺の墓地の一角に酒井氏の墓石が何基かあり、そのうちの一基に「酒井家始祖広親公御生母墓」という標がもうけらられています。※誓覚寺は平成31年1月現在で廃寺の様でした。

稲荷社


酒井地区鎮守社の稲荷社になります。

 [ 参拝記事はこちらから ]


 

誓覚寺【廃寺】


酒井氏始祖広親公の母親の墓があります

[ 参拝記事はこちらから ]


 

酒井氏先祖の墓

酒井広親の墓をネットで検索すると、岡崎市岩津町の信光明寺近くにある酒井広親の宝塔がヒットするかと思います。広親が松平氏に仕え、岩津城を手中に収めた後に没し、信光明寺に葬られたと思われます。岡崎市で現存する宝塔の中で一番古い物なんだとか。近いうちに訪れて、紹介しようと思っています。

更に酒井氏に纏わる話で、酒井氏の発祥の地とされているのが、もう一ヶ所あって、碧海郡坂井(現在の刈谷市東境町)にある丸山城址及びその一体が伝承地になっているんだそうです。丸山城址からは少し離れますが、刈谷市西境町には酒井神社が鎮座しています。こちらの方も、機会があれば訪れてみたいと思います。

三河七御堂:青龍山 金蓮寺

酒井氏発祥の地から南を望むと矢崎川左岸近くまで山裾が迫ってきています。この山の南側に鎮座しているのが「青龍山 金蓮寺」になります。この金蓮寺には国宝に指定されている「弥陀堂」があります。こちらの「弥陀堂」は建久年間に三河守護安達盛長によって建てられて三河七御堂の一堂に名を連ねています。しかも、当時の御堂が現存すると伝えられていましたが、昭和二十九年に行われた解体修理で建久年間に建てられた建物ではなく、鎌倉時代中期に再建された建物であるとされ、残念ながら源頼朝、安達盛長らが活躍した時代の弥陀堂ではなくなってしまいましたが、それでも愛知県最古の木造建築物であり、国宝の価値は変わりません。

※三河七御堂でここ金蓮寺弥陀堂だけが唯一西三河に建っていて、後の六ヶ寺の弥陀堂はすべて東三河に建立されています。奈良時代から三河国の国府は現在の豊川市国府であって、東三河が中心地だったことを物語っているような気がします。

青龍山 金蓮寺参拝記

足利尊氏と饗庭命鶴丸

金蓮寺の建つ周辺は平安時代までは伊勢神宮外宮の神領であり「饗庭御厨」と呼ばれた場所になります。しかし承久の乱以降、足利義氏が三河国守護に任ぜられると足利一門や自分の家臣などを地頭に任命し三河国各地に配属させています。この「饗庭御厨」も例外ではなく、地頭職が任命され神宮祭主と対立する構造になっていきます。室町幕府が成立する事には、饗庭郷と呼ばれるようになり、実質的に「饗庭御厨」と呼ばれた神宮神領は崩壊したと言えます。

この饗庭郷を本地としていたのが饗庭氏であり、「永徳三年(1383年)三月に加賀国から石川命鶴丸が、後小松院の院宣により饗庭七郷を賜り、饗庭城に入った」と現地の案内板では紹介されています。しかし、饗庭(石川)命鶴丸は、足方尊氏の寵臣としてその名を知られていて、饗庭郷を本地として饗庭氏を称したとするならば、それ以前からこの地に饗庭氏は存在していたのではないかなと思うのですが。

足利尊氏は、西尾市の伝承では、八ツ面城(荒川城)に在城の頃の暦応三年(1340年)に饗庭郷の干拓事業を行い、その新田の鎮守社として三社を創建したといいます。尊氏は尾崎主計の一族に3名に神宮、奈良神社、山城八坂神社に分霊を請う為に同時刻に三名を出発し、早く戻ってきた者から一の宮、二の宮、三の宮と称したそうです。そして、「一の宮は小山田の神明社、二の宮は饗庭の牛頭天王社、三の宮は友国の春日神社」となったそうです。更に尊氏は、饗庭郷に三ヶ寺の創建を命じます。それが「金蓮寺、正法寺、勝楽寺」となります。

饗庭神社


[ 参拝記事はこちらから ]


春日神社

小山田の神明社については、以前参拝記を掲載していますので、そちらの記事をご覧ください。

萬松山 勝楽寺


[ 参拝記事はこちらから ]


医王山 正法寺


[ 参拝記事はこちらから ]


 

どこまでこれらの伝承に信憑性があるのかは不明ですが、饗庭命鶴丸は足利尊氏の寵臣として重要な任務をこなしていたそうですし、命鶴丸の本地である饗庭郷を尊氏の命で開拓し三社三ヶ寺を有する領地にさせた可能性もありそうだなと想像するのですが。また、この辺りは吉良荘と呼ばれた吉良氏の本拠地からも近いわけですが、この辺りは足利尊氏との距離の問題かもしれませんねえ。

時代は下り、文明七年(1475年)、松平郷から岩津城、安祥城と勢力を伸ばしてきた松平氏の三代目当主「松平信光」に対し、饗庭城主「饗庭妙鶴丸」が金蓮寺に於いて呪詛を行い祈り殺そうとする事件が発生します。この行為は事前に松平方に漏れたとされ、饗庭妙鶴丸は饗庭城で自害してし、饗庭氏は滅び、饗庭城は松平氏の支配下に入り、松井忠直に与えられたとされています。

三河海岸大師巡礼

金蓮寺から吉良吉田駅にかけて、矢崎川の両岸に数多くの三河海岸大師の札所があります。以前、吉良吉田駅周辺の散策でも訪れた寺院もありますが、当時は三河海岸大師霊場の存在も知らずに訪れていたので、改めて参拝していこうと思います。

医王寺 正法寺

三河海岸大師二十四番札所

護念山 正龍寺

三河海岸大師二十五番札所

萬松山 勝楽寺

三河海岸大師二十六番札所

白峰山 円通院

三河海岸大師二十七番札所

浄正寺【廃寺】

三河海岸大師二十八番札所

青龍山 金蓮寺

三河海岸大師二十九番札所

安楽寺【廃寺】

三河海岸大師三十番札所

薬師堂【薬師教会】

三河海岸大師三十一番札所

北星山 西福寺

三河海岸大師三十四番札所

神休山 真福寺

三河海岸大師三十五番札所

無量山 専長寺

三河海岸大師三十六番札所

如意山 宝珠院

三河海岸大師三十七番札所

今回の小紀行MAP

以前、吉良吉田駅周辺を散策した時とエリアがかぶっています。でも、正龍寺以外は初めて訪れる場所ばかりです。今回訪れた金蓮寺から吉良吉田駅にかけては非常の奥の三河海岸大師の札所がありまして、ある意味ホットスポットの様な感じです。

-歴史紀行