名古屋西区

白山神社(名古屋市西区押切町)名古屋十名所-榎権現-

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ONE POINT

名古屋市西区押切二丁目の美濃路沿いに鎮座する白山神社の紹介です。古くから榎権現と呼ばれており、桶狭間の戦いの際には決戦に向かう織田信長が戦勝祈願した神社になります。

神社情報

神社名白山神社
鎮座地愛知県名古屋市西区押切町二丁目五番地二(Googlemap
例大祭七月十七日、十八日
創 建文明九年(1477年)
御祭神菊理姫命
天照大御神
豊受大神
旧社格指定村社
神名帳

境内社

境内社稲荷社
田道間守社(御祭神:田道間守命、大己貴命)
戸隠社
金刀比羅社
天神社

文化財

国 宝
国指定
県指定
市指定
町指定
村指定

参拝情報

御朱印
URL
駐車場
参拝日2022年4月13日

御由緒

 名古屋市史・社寺編によると、「文明九年(1477年)、斯波治部大輔義廉、加賀の白山権現を勧請す。」としています。

斯波義廉とは?

斯波氏十一代当主であり、室町幕府管領及び越前・尾張・遠江守護

 義廉は斯波氏と同様に足利一門である「渋川氏」の出身であり、八代将軍足利義政の政策により斯波氏の家督を継承し、三国の守護となる。しかしその後の状況の変化により、斯波氏の当主を追われた斯波義敏と義廉は政所執事の伊勢氏、斯波氏共に三管領と呼ばれる山名氏・細川氏などを巻き込んだ武衛騒動と呼ばれる斯波氏当主の座を巡る政争が勃発し、これが政争が後の応仁の乱へと発展する火種を産むことになります。
 山名宗全の娘を正室としていた義廉は応仁の乱に於いて西軍主力を担うが、家臣であった朝倉氏や甲斐氏が東軍に帰順してしまい孤立してしまい、文明七年(1475年)に尾張守護代織田敏広を頼り尾張国に向かう。一時は尾張国内において東軍はを駆逐するが文明十年に敏広が守護代を更迭されると幕府から「凶徒」と断じられてしまい尾張国内での支持基盤をすべて失い、その後は行方不明となっています。

 名古屋市史の由緒を見直すと、白山神社が勧請された時は斯波義廉が京周辺での勢力を失い尾張国に滞在し、その尾張国から敵対勢力を駆逐して勢力の回復を図っていた時期に当たるかと思います。

 江戸時代末期に書かれた「尾張名所図会」にも押切町の白山神社について書かれています。これによると・・・『押切村の北側をありて、続に榎の権現と称す。別当は榎本山福満寺と称して、紀伊国高野山金剛三昧院の末寺。文禄年中の建立なり。縁起略に曰く、当社は文明九年、当国の太守斯波治部大輔義廉、清須に在城の時、加州白山権現を信仰ありしに、在夜夢中に老尼顕れ、我は白山の霊なり、当国鴛鴦喜里の沼の辺に勧請すべし。武門の守護せんと見て夢覚めぬ。夫より此社を勧請し、左右に神明・秋葉を祭れり・・後略・・。』

尾張名所図会では挿絵と共に榎権現として紹介されている白山神社ですが、別当として真宗の榎本山福満寺が別当を務めていたと記しています。この福満寺なんですが、明治維新の際の神仏分離令によって白山神社の別当は外れた後も白山神社の東隣に在った様です(名古屋市史寺社編には福満寺の項目があります。)が、現在では廃寺となってしまっています。

織田信長の桶狭間への道

 永禄三年(1560年)に今川義元が大軍を率いて尾張国に進入し、これを織田信長が寡兵ながら討破り、今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」が勃発する訳ですが、清州城にいた織田信長が兵を集めたと熱田神宮に向かう道中にこの白山神社へ戦勝祈願の為立ち寄ったと伝えられています。延暦寺の焼き討ちなど神仏に対して敵対している様なイメージのある織田信長ですが、実は神仏に対して非常に崇敬していました。そして、桶狭間の戦いで勝利した後、織田信長は白山神社に太刀寄進しているそうです。残念ながらこの太刀は昭和二十年の太平洋戦争による空襲により白山神社周辺にも焼夷弾が落下し白山神社の社殿も消失してしまった時に失われています。

名古屋十名所

 新愛知新聞社が大正十三年に葉書の投票による名古屋市における新十名所を決定するという企画が行われ、「押切町榎権現」という名称で66,173票を集め第八位に選ばれています。明治時代の神仏分離令によって権現という名称は仏教色が強い事から使用できなくなったはずなのですが、大正十三年にもなると行き過ぎた神仏分離からかなり振り戻しがあった事がこの辺りからも感じ取れます。

 社伝に文明九年(1477年)の勧請という。押切町の産土神として崇敬あつく、明治五年、村社に列格し同四十年十月二十六日、神饌幣帛料供進指定社となる。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」

御祭神

  • 菊理姫命
  • 天照大御神
  • 豊受大神

御朱印帳の保管に

 数年前より非常に集める方が増えた「御朱印」ですが、皆様は御朱印帳はどうやって保管していますか?神社・仏閣を廻って御朱印を受けているとあっという間に御朱印帳の冊数が増えていきますが、そのまま棚などに置いている方が多いのでは?。せっかくお受けした御朱印ですので、日本では古くから着物を始めとして大切なものを保管する為に使われていた「桐箱」に入れて保管した方がよろしいかと思います。

 ぜひ、皆様も桐箱に御朱印帳を保管されてみたらいかがですか?

愛知県下新十名所を巡る

 2022年のメインの企画「愛知県下新十名所」ですが、今回から第六弾の遠征となる今回は名古屋城近くにある「京町薬祖神」を目指してバイクを走らせていきます。

 名古屋市中区の「清涼山栄国寺/紹介記事」を後にして、国道22号線を北上して名古屋城の三の丸を通過して名古屋市の西区に向かいます。堀川を渡った後に国道22号線の北側に旧美濃路が通っており、この美濃路に面する場所に今回紹介する「白山神社」が鎮座しています。

 愛知県下新十名所と名古屋新十名所巡り
ー京町薬祖神・闇之森・榎ノ権現・久屋金刀比羅社ー

参拝記

 名古屋から清州を経由して美濃国に通じている美濃路沿いに白山神社が鎮座しています。見る限り白山神社には参拝者用の駐車場は見当たらなかったので、車で参拝される際は注意が必要です。

境内入口

 美濃路に面する南側に境内入口が設けられており、一風変わった石造の瑞垣が設けられており、その奥に社号標と名古屋新十名所の石標が据えられています。
 この変わった瑞垣は・・・

 石柱に「権現橋」と彫られています。この瑞垣は元々白山神社の境内西側を流れていた笈瀬川に架かっていた権現橋の石橋の欄干部分が転用されているそうです。

笈瀬川は現在埋め立てられており笈瀬川筋と呼ばれている市道に転用されているようです。で、権現橋は白山神社の西側の現在「榎小学校北交差点」の場所に架かっていた橋になります。

名古屋十名所石標

 境内入口の脇に名古屋新十名所の石標が建てられています。この名古屋十名所の石標は十名所を巡っていくと結構な確率で見かけるかと思います。

鳥居

 扁額の無い石造明神鳥居になります。鳥居の下を潜ってぶら下がっている提灯はいつもこんな感じで掲げられているのかな?

 鳥居の先には例大祭の時になにか看板か提灯が掲げられるのであろうステンレス製の門?が二基ほど据えられています。

手水舎

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。

狛犬

 白山神社には狛犬三対鎮座していて、一番社殿に近い場所に据えられている狛犬一対になります。

社殿

 昭和三十四年と昭和四十九年にRC造に建て替えられた入母屋造銅板葺平入の土間敷きの拝殿を有する社殿になります。昭和三十四年には拝殿と幣殿が、昭和四十九年には祭文殿と本殿がそれぞれRC造に建て替えられています。

蝋燭台

 拝殿前に据えられている尾張地方の神社でよく見かける蝋燭台になります。

境内社

 ここ白山神社以外で見かけた記憶がない「田道間守命」が祀られている田道間守社になります。田道間守命は新羅から渡ってきた渡来人の子孫であるとし「菓子の神」として信仰されているそうです。

 向かって右側から戸隠社、金刀比羅社、天神社が鎮座しています。

 社殿むかって右側に鎮座している稲荷社です。

鎮座地を神社で確認

神社名白山神社
鎮座地愛知県名古屋市西区押切町二丁目五番地二(Googlemap
最寄駅鉄道:名古屋市営地下鉄・鶴舞線「浅間町駅」徒歩11分
   名古屋鉄道「栄生駅」徒歩19分
バス:名古屋市営バス・名駅13系統「葭原町バス停」徒歩2分

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

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