安城市 安城市

小松山誓願寺(愛知県安城市姫小川町) 内藤家菩提寺

2020年5月18日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名小松山誓願寺
所在地愛知県安城市姫小川町姫一四九番地
御本尊阿弥陀如来
宗 派浄土真宗大谷派
創 建白鳳辛巳十年(681年)
札 所
御朱印
H P

参拝日:2019年9月24日

沿革・由緒

 当サイトでは、その所縁の地で何度か説明をしてきている「綾姫伝説」ですが、今回参拝する「小松山誓願寺」は綾姫の念持仏である「聖観世音菩薩像」を安置したとされる「蓮華寺」の流れを汲む寺院になります。

小松山誓願寺 宗派 浄土真宗大谷派
一、由緒
 大化五年(649年)孝徳天皇皇女綾姫様当地に漂着され、里人に迎えられこの地に宮を築きて住み給う。姫は念持佛聖観音菩薩を蓮華寺に安置し祀り給う。白鳳辛巳(681年)薨ぜられるやその菩提の為、蓮華寺を営みし人、即ち義峯大徳(693年逝去)にして誓願寺の開基と伝えられる。以来天台の寺として代を重ねてきたが、二十二世了意上人応仁二年(1466年)蓮如上人の弟子となり浄土真宗に転じて現在に至る。又応仁の乱世に内藤氏三河に下り姫の地にも居館を構えたと伝えられ、当寺を菩提寺として清長、重清はこの地に葬られ一族の墓と共に市指定文化財となっている。
 三十九台義鳳は寺子屋を開き子弟の教育に尽くされたが明治四年の大浜騒動に真宗護持の為法難に遭われた。此度境内墓地の造成と周辺整備の完成を記念し法灯を永く後の世に伝えんが為謹んでこれを識す。

合唱

 境内に据えらえている由緒板にも、「綾姫伝説」の一端が書かれています。姫小川古墳(浅間神社)などに据えられている由緒板なども参考にしながら考察すると、

 「綾姫」は五十二歳で亡くなった様です。そして念持佛を安置していた蓮華寺にて葬儀が行われ、「豊玉姫神社の森」と呼ばれる場所にご遺体を埋葬し、その後「御陵」を築き、御陵周辺を「皇塚の森」と呼ばれるようなったという事なのでしょうか。
※豊玉姫神社の森とは、現在の姫小川古墳周辺と想定され、また築かれた御陵は姫塚古墳ではないかと言われています。

 孝徳天皇の皇女とされる「綾姫」ですが、孝徳天皇の子息の中にその名間を見る事が出来ません。架空の人物ではないかと言われる「綾姫」だったりするのですが、往々にして時の政権や中心人物によって歴史は書き換えられる物でして、もしかしたら「綾姫」に繋がる血筋は都合がよろしくないという事で抹消されたことも十分に考えられるかなと思っています。
 姫小川古墳などヤマト朝廷の流れを汲むと言われている前方後円墳が桜井古墳群に存在する事から、綾姫かどうかは別として、やんごとなき人がこの地に訪れていた事はまちがいないのかな。

 室町時代になり、この地に浄土真宗の蓮如上人が訪れたとされ、この時に蓮華寺の住職が蓮如上人の弟子となり、真宗本願寺派に改宗し中興開山しています。この時、寺号を「小松山誓願寺」に改宗しています。

 この桜井周辺には、三河三ヶ寺に名を連ねる野寺の本証寺が存在し、また浄土真宗本願寺派三河教団の大檀那となっていた「石川政康」が小川城を築いており、蓮如上人が三河へ布教に訪れて以来、壮絶な本願寺派の布教攻勢が行われていたと言われています。その効果なのか、安城市に合併する前の「碧海郡桜井町」の時代、町域に十二ヶ寺がありましたが、内十一ヶ寺が浄土真宗大谷派の寺院となっていました。

 そして、浄土真宗門徒であった「内藤清長」は上野下村城から当地に移り、誓願寺に接する場所に「姫城」を築き居城としたとされています。そして、誓願寺を自ら一族の菩提寺としたといいます。
 徳川家康が桶狭間の合戦後今川家から独立し、三河統一に向けて突き進む中、浄土真宗本願寺派三河教団との武力衝突「三河一向一揆」が勃発してしまいます。内藤清長は家康の家臣でありながら、信仰心を捨てきる事ができず、徳川軍を出奔し一向一揆勢として元主である家康との対決に臨むことになります。
 清長は、姫城と共に誓願寺に門徒集を集めて徳川軍と対峙していたと言われています。現在では姫城跡は宅地化されてしまい、遺構は全く残っていませんが、誓願寺には当時の堀跡とされる場所や、土塁跡などが残っており、城郭寺院だった時代を彷彿とさせてくれます。

 三河一向一揆は結局鎮圧にちかい形での和平協定を結び終結しています。一揆側に与した家康の家臣達も、再び家康の元に戻った者も多くいました。内藤清長は姫城から追われ現在の幸田町萩にあった「萩城」にて蟄居させれています。
 清長の嫡子である「内藤家長」は真宗門徒でしたが家康の下で一向一揆勢と戦っており、家康の関東移封に伴い上総国佐貫城主となっています。
 この時姫城は廃城されたと言われています。

桜井町の色々な史跡を巡っていく中、一覧みたいな記事を書こうかなと思って勝手に「桜井町誌」を作成してみました。「綾姫伝説」についてもまとめていく予定ですので、是非ご覧ください。

歴史探訪

 豊田市幸町にある「稲荷山隣松寺/紹介記事」において隣松寺の境内に「松平忠吉公、細川初代から三代までの墓石」と並び、「内藤清長の墓石」が安置されていると紹介しています。元々内藤家は隣松寺の西に位置する場所にある「上野下村城」の城主として松平家に臣従していた豪族だったようです。織田信秀の三河侵攻の際、上野下村城にて織田軍を迎え撃ち撃退したという逸話も残っています。が、その後すぐ隣に位置している上野上村城が織田家の手に落ちた為なのか、清長は上野下村城を捨て、姫小川に移り「姫城」を築城したようです。松平宗家の意向があったのかは不明ですが、姫城の南に位置する場所にある「木戸城」の成瀬家、「藤井城」の藤井松平家と共に宗家に反旗を翻していた「桜井城」の桜井松平家への牽制となっていたのではないでしょうか。

 本来でしたら、桜井の地は松平家の惣領となった「安祥松平家」の基盤の一つにならなければならない所なのですが、安祥松平の松平広忠と桜井松平の松平信定による身内の権力闘争により、安祥松平家が分裂、弱体化を招き、織田家、今川家の介入を許しただけでなく、松平家全体が織田派、今川派に分裂してしまう状況となってしまいます。

 松平清康・広忠・家康と仕えてきた「内藤清長」ですが、松平家の領地を一気に拡大していった清康時代から急転直下で織田家・今川家の侵略、松平家の内部闘争、そして今川家の属国化、そして家康の独立、という松平家の歴史をその目で見てきて、一体どういった気持ちだったんでしょうか。

[ad]

参拝記

 「姫小川古墳/浅間神社」から北西にいちする場所にあるのが今回参拝する「小松山誓願寺」になります。浄土真宗の寺院は霊場の札所になっている事が無い為、霊場を巡っているだけでは中々縁のない宗派の寺院であると言えます。しかし、特に三河地方が浄土真宗の寺院が非常に多い地域でして、武将の菩提寺や史跡などで寺院を巡っているとその名を目にする事が多くなってくる感じですかね。

 この誓願寺の北東に位置する安城市東町獅子塚に内藤清長が築いたとされる「姫城」があったと言われています。明治時代までは土塁跡が残っていたそうなのですが、現在ではそういった遺構はすべて消失してしまい宅地化されています。

山門

 袖壁の設けられた薬医門の山門になります。

 実は、この山門は現在の豊田市寺部町にあった「寺部城」から移築された薬医門なんだとか。寺部城は文明年間に鈴木重時に築かれた城郭であり、鈴木家と松平家は幾度となく武力衝突を繰り返した間柄になります。桶狭間の合戦後、織田信長の家臣佐久間信盛に攻め落とされ、これ以降、織田家の領地となっていきます。その後尾張徳川藩が成立すると、寺部城から寺部陣屋に改修したのち、尾張藩宿老である渡辺守綱が一万四千石で受領し、以降渡邊家が明治維新まで寺部の地を納めていきます。

 明治維新により全国の城郭共に各地の陣屋も破却されています。全国的にも、こうした陣屋や城郭の門が寺院などに移築され山門として再利用されている所は数は多いわけではないですが、霊場巡りなどしていると時々出会う事ができますね。

手水舎・水盤

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。手水舎に対して少し水盤が小ぶりかなって感じですね。

本堂

 寄棟造瓦葺平入の向拝のある本堂になります。各扉がサッシに改修されているのでなんとなく近代化っぽくなっている感じですね。

伝真宗墓碑

 安城市の指定建造物になっている「伝真宗墓碑」がここ誓願寺に二基あります。これがどうゆう物なのかはいまいち分からないのですが、浄土真宗独特な様式の墓石ということなのでしょうか。

 関東移封で内藤家長は上総国佐貫城主となり関東に移っていきましたが、内藤一族の中でもここ姫小川に残った者がいて、ここ誓願寺周辺に住んでいたのではないでしょうか。

城郭伽藍の名残

 三河一向一揆の際に誓願寺周囲を囲むように構築されたとされる土塁跡になります。現在では一部のみが辛うじて残っている状態です。

 山門の前には、誓願寺を囲んでいた堀の跡とも言われている場所が残っています。現在ではビオトープの様な感じになっています。

内藤家墓所

 内藤清長とその祖父「内藤重清」の墓石が誓願寺に安置されています。元々は案内板に書いてあるのですが、内藤長左衛門の屋敷にあった宝篋印塔を移設したものなんだとか。もしかしたら内藤長左衛門の屋敷って「姫城」の事なのかも?
 三河一向一揆で家康と対決する道を選び、その後萩城で蟄居中に亡くなったとされる「内藤清長」ですが、その墓石が、ここ誓願寺と「稲荷山隣松寺」に置かれています。誓願寺の墓石は、蟄居中に亡くなった為屋敷内に墓石を置いていたがその後誓願寺に移動したという事で説明できそうなのですが、隣松寺の何故墓石が安置されているのかはよく分からないですね。

こちらが内藤重清の墓石とされている宝篋印塔になります。

 内藤清長のものとされる宝篋印塔は、ご覧の様に、周囲を壁に囲まれ、薬医門が設けられた墓所の中に安置されています。

 なかなか、門と塀で囲まれた墓所って大名の菩提寺を参拝しても中々出会えません。内藤清長の子孫が藩主と務めた延岡藩からの寄進が毎年あったという事もあり、こうした立派な墓所になっているのであろうと思います。
 そこまで有名な武将の墓所ではないですが、一見の価値ありかなと思います。

[ad]

地図で所在地を確認

寺院名小松山誓願寺
所在地愛知県安城市姫小川町姫一四九番地
最寄駅名古屋鉄道西尾線「桜井駅」徒歩7分

-安城市, 安城市
-, ,