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桜井神社(愛知県安城市桜井町) 延喜式神名帳 碧海郡比蘇神社論社

2020年5月12日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

神社紹介

神社名桜井神社
鎮座地愛知県安城市桜井町桜林十七番地
御祭神伊弉諾尊、伊弉冉尊、菊理姫神、八幡大神、天照大御神
火之加具土命、火産霊神、応仁天皇、倭姫尊、菅原道真
旧社格懸社
創 建養老二年(718年)
神名帳延喜式神名帳 碧海郡 比蘇神社
三河国神名帳 従五位上 比蘓天神
境内社御鍬社、辨天社、稲荷社
例祭日十一月三日
御朱印
H P

参拝日:2019年10月4日

由緒・沿革

 桜井神社の本殿は「比蘇山古墳」と呼ばれる前方後円墳もしくは前方後方墳とされる桜井古墳群に属する古墳の墳丘上に鎮座しています。ただ、古墳全体がかなり削られてしまっている為、全体の大きさなど確定できる物がなくあくまでも推定となりますが、全長40m程の古墳だったとされています。本殿を囲む瑞垣の造営工事の際に学術発掘調査が行われている様です。

 社殿によると、養老二年(718年)、「桜井戸/紹介記事」の近くに建立されたようですが、その後「碧海山」、「二子山」と遷座を繰り返し、弘仁九年(818年)八月下旬に、現在の「比蘇山」に鎮まったとされています。
 桜井古墳群の中でも二子古墳、比蘇山古墳の墳丘上に鎮座してきたことから、元々はこの地域を治めていた氏族の為に建立された神社ではないかと考えれています。

 旧事記(古事記ではないですよ。)に、「五十狭城入彦皇子は応神天皇の勅命により、三河の地の逆臣、君主に背く者の討伐をしこの地を治めた。」と書かれた五十狭城入彦皇子の陵墓が岡崎市西本郷町にあります。この五十狭城入彦皇子を祖とするのが三河の有力氏族で三河国造とも言われる「長谷部氏」になります。「五十狭城入彦皇子陵墓」と桜井古墳群の特徴がよく似ている事から、桜井周辺まで長谷部氏が支配していたのではないかと考えられているようです。

五十狭城入彦皇子陵墓 参拝 2009/8/30

 時代は流れ、神仏習合の流れがこの地にも訪れ、桜井神社にも神宮寺が建立されます。神宮寺の規模は不明ですが、現在でも神宮寺で奉安されていた「薬師如来坐像」が伝えられており、「印内薬師」として桜井神社の境内に観音堂が建てられ奉安されています。

 神宮寺の規模が大きければ、神宮寺の僧主が別当を勤め、その別当の下に神官(宮司)が置かれるのですが、規模が小さくなると別当が神官を兼ねるようになってきます。この辺りは神仏習合の基本概念であるともいえる「仏主神従」の影響が非常に大きく関係している点です。

 三河湾の矢作川河口から現在は埋め立てられてしまいましたが菱池周辺まで辺りまで伊勢神宮の神領が形成されていく事になります。伊勢神宮神領となった地域には、伊勢神宮祭神である天照大御神を奉斎する神社が建立されて行く事になります。そしていつ頃かは不明ですが、桜井町史によると鎌倉時代から室町時代初期には桜井神社も天照大御神を奉斎する「神明社」と改称したのではとされています。祭神をガラッと変える事は今も昔もあまり考えられない事ですので、新たに天照大御神を勧請し神明社としたのかと思われます。(愛知県神社庁が発刊している「愛知県神社名鑑」には御祭神の中に天照大御神が記載されていないのですが、桜井神社の境内に据えられた由緒板にはしっかりと天照大御神が記載されていたので、記載漏れかと思われます。)

 桜井神社には大永七年(1527年)「松平親房」が社殿を再建した棟札が残されています。この棟札にはしっかりと「奉造立神明社一宇」と書かれていることから、室町時代には神明社と称していた事がわかり、さらにこの棟札には「勤進沙門別当慶圓」という名前が見られ、この時代まで桜井神社の「神宮寺」が存在していた事がわかり訳です。

 桜井松平家の菩提寺である「桜井山菩提寺/紹介記事」でも紹介していますが、桜井神社の神宮寺を移転し、浄土宗へ改宗し中興開山したのが桜井山菩提寺となります。別当でもある神宮寺が桜井神社から離れていったのと時を同じくして、紀州の山伏だったと言われる「野田氏」が桜井神社の神職として登場してきます。野田氏は始め現在の川島町に白山社を建立した様ですが、桜井神社に遷座合祀し、白山神である「伊弉諾尊、伊弉冉尊、菊理姫神」を主祭神とし、社名を「白山社」と改め、明治維新まで社家として白山社(桜井神社)の祭祀を行っていく事になります。

 桜井神社の西側、「山伏塚古墳」には歴代宮司を勤めた「野田家」の墓所があります。こちらの山伏塚には安城市の設置した案内板があるのですが、これによると、「桜井神社が創建されたとされる養老2年(718年)紀伊国野田郷の修験者だった野田熊勝はこの地に居を定め、この地の大神と共に桜井神社の御祭神の一柱である菊理媛神を奉祀したと伝承されている」と書かれています。

 「このブログで書いている由緒と全く違うじゃねえか!」と思われる方がいらっしゃるかとおもいますが、「泰澄」により白山が開山されたのが養老元年(717年)になります。それ以前から白山信仰は存在していたと言われていますが、それまではいわば土着の信仰の様な物であったとされます。泰澄により平泉寺などが作られ、白山信仰が体系化され全国に普及し始めたとされます。
 泰澄が白山を開山した翌年にこの地に白山神を勧請したとは正直な所そんな簡単に泰澄の考えを会得して布教できるのか?と思うと、1年やそこらで白山から三河の地に白山信仰が普及するとは考えられないんですよね。桜井神社の棟札によって、少なくとも大永七年(1527年)までは神明社であり、慶長十九年(1614年)の棟札で「奉造立白山社一宇」とあり、1527年から1614年の間に白山権現が勧請されたのではないかと当サイトでは考えています。
 こうやって色々考えられるのも歴史の面白い所ですね。

明治維新を迎え、明治五年十一月郷社に列格、昭和七年に懸社に昇格しています。また、大正三年には、字二夕子の天神社、字下谷の八幡社、字西町下の秋葉社、字貝戸尻の秋葉社、字屋敷の天神社、字獅子塚の秋葉社を本社に合祀した。

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歴史探訪

 戦国時代に突入し、この桜井の地を納めていたのが安祥城を本城とした安祥松平家の分家である「桜井松平家」になります。「桜井城/紹介記事」を築き居城としていたのが「小浦喜平次忠重」なる人物なのですが、松平家の圧力に屈したのか攻め落とされたのかは史料が無いのでわかりませんが、文亀元年(1501年)までには桜井城は松平家の手に落ちたと言われています。小浦氏に変わり桜井城主となったのが「松平親房」です。安祥松平家初代「松平親忠」の息子になります。親房自身の資料はあまり残っていないのですが由緒でも紹介していますが、大永七年(1527年)に行われた、当時は神明社と称していた桜井神社の社殿造営時の際の棟札にその名を見る事ができます。
 親房には嫡子がおらず、養子の「松平信定」がそのあとを継ぎ、桜井城主となり、養父である松平親房の菩提を弔うために、桜井神社の神宮寺を現在の境内地に移転させ浄土宗に改宗した上で中興開山したのが「桜井山菩提寺/紹介記事」となります。

 それまで神宮寺の住職が別当として桜井神社の祭祀を行っていた様ですが、神宮寺が移転すると、当然祭祀を行っていた住職もいなくなってしまう訳です。そこで、野田氏が宮司を勤めていた川島町の白山社を桜井神社(当時は神明社)へ遷座合祀、「白山社」と改称し「野田氏」が宮司を明治維新まで歴代勤めていく事になります。

 安城市には「三河三白山」と呼ばれる名数があります。安城市に鎮座する「大岡白山神社」、「上条白山媛神社」「桜井神社」の三社の総称になります。

安城市のホームページによると、

 松平清康(松平七代)は、1523(大永三)年に13歳で安祥城主となり、三河平定に乗り出しました。清康に従う将兵は、安城譜代といわれる家臣団で、出征中に家族は大岡・上条・桜井の三白山社に、お百度を踏んで武運長久を祈願したといわれます。

 徳川家康(松平九代)は、1566(永禄九)年に三河守となると、さっそく大岡三白神社の本殿を造営し、ついで1603(慶長八)年に征夷大将軍になると、翌年、安城の代官米津正勝に検地を命じると共に祖父の業績を記念して、三社に社領を寄進し、社殿を造営させました。そのため世にこれを三河国三白山社と呼び、「和漢三才図絵」にも掲載されています。

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参拝記

 岡崎西尾線の旧道から境内に向かって両側に松並木が植えられている参道が境内に向かって伸びています。この参道の黒松並木は安城市の天然記念物に指定されています。

参道

 参道入口部分には、社号標、由緒書き、一の鳥居が据えられています。参道の途中に二の鳥居が立っているのが見えます。

 「懸社桜井神社」と彫られた社号標になります。社号部分はコンクリートで埋められている様ですが、まったく意味をなしていないですね。

鳥居

 昭和五年建立の明神鳥居の一の鳥居になります。この一の鳥居から二の鳥居の手前までは一般道と共用されているようです。

 明治三十三年建立の二の鳥居になります。ここから境内までは車両乗り入れ禁止になっているようです。

境内

 参道を進んでいくと、三の鳥居とその奥に社殿が見えてきます。

旧社号標

 懸社に昇格する前にまで据えられていた「郷社」時代の社号標が境内の片隅に据えられていました。

手水舎

 井戸と水盤が据えられている木像瓦葺六本柱タイプの手水舎になります。やはり六本柱タイプの手水舎はかなり大型ですね。

狛犬

 大正九年生まれの狛犬一対になります。

社殿

 由緒で紹介していますが、桜井神社は「比蘇山古墳」の墳丘上に鎮座している為、拝殿を含む社殿は境内の中で一段高い場所に鎮座しています。

 入母屋造銅葺平入の唐屋根の向拝が設けられた拝殿になります。

 拝殿奥は露天の祭場となっていて、妻入りとなっている神門の奥に流造の本殿が鎮座しています。本殿が鎮座している部分は拝殿よりもさらに一段高くなっています。本殿を囲む瑞垣の造営工事の時に「比蘇山古墳」の学術調査が合わせて行われた様です。

境内社

 社殿向かって左側に境内社である辨天社と稲荷社が鎮座しています。

印内薬師

 桜井神社の神宮寺にて奉安されていた薬師如来坐像が安置されている薬師堂です。明治政府による神仏分離策が徹底されていた頃は、碧海郡桜井町字院という所に安置されていたようですが、その後、現在地に遷座されたといいます。

 愛知県指定文化財となっている薬師如来坐像です。平安期作と伝えられています。この印内薬師は、「川島薬師」、「古井薬師」と並び、この地区の三薬師と総称されているそうです。

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神社名桜井神社
鎮座地愛知県安城市桜井町桜林十七番地
最寄駅名古屋鉄道西尾線「堀内公園」徒歩10分

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