西尾市

今川氏発祥の地(西尾市今川町)

2019年1月20日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

史跡概要

鎌倉時代の承久三年(1221年)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府討幕の兵を起こします。しかし鎌倉幕府方の北条義時によって鎮圧され、後鳥羽上皇は隠岐に流された承久の乱が起こります。
この時、鎌倉方で北条氏との繋がりが強かった足利義氏が褒賞として三河国の守護職を得ます。以降、三河国は足利氏によって重要な拠点となっていきます。

守護になった義氏は地頭職として一族を三河地方に配属させます。北条氏との繋がりの為足利本家の家督は三男の泰氏が継ぐ為、長男である「長氏」に、三河国吉良荘の地を与えます。

吉良荘を得て、足利性から地名から吉良性に改めた「吉良長氏」は、吉良の家督を譲った後、今川荘に隠居します。そしてその後、次男である「国氏」に今川荘を与えます。そして国氏は今川の地から今川と名乗り、「今川国氏」と称していきます。

駿河、遠江、三河を納めた戦国大名だった今川氏は始めは吉良氏の分家で非常に領地も小さかった地頭職から始まった訳ですね。

2019.3.29追記


幡豆郡西尾町史には、「今川村古城」という名称で紹介されていたので、転記させて頂きます。

当城は、三河の守護西条城主吉良長氏の次男「今川四郎国氏」初めてこの地に居り、今川荘を領せり。因て、今川を苗字として今川氏と称せり。後長氏は駿河の守護職を兼ねるに及び、国氏、父に従いて駿河に趣き、父隠居の後は駿河の守護職を襲けり。今川氏の元祖なり。
その後、在城者の有無、廃城の年月詳しからず。城跡は今川字土井堀に在り。境城は今は水田又は社地に転じて境界明らかにならず。只、僅かに字名に土井と堀との名残を留むるのみなり。思うに土井は土居の当字にして豪族の居館の義なり。因みに国氏は弘安五年十二月十三日を以て駿河に卒せり。享年四十。国光寺殿と号せり。

と書かれています。

吉良氏は足利幕府の中心にはいましたが、所領は僅かしかなく、守護職に任命されたことはないのですが、西尾町史では、なぜか吉良長氏が三河守護職に次いで駿河守護職にも任ぜられたと書かれていますが、そんな事実はなく伝記が間違っていると思われます。

明治時代とか、どこまでこういった歴史が全国で共有されていたのか不明ですが、地方ごとに伝記が違っていた事は多々あったのかもしれませんね。

訪問記

現在は、西尾市立西尾中学校の南側に今川氏発祥の地の石碑が立っています。周囲の道が狭い為、少しわかりにくい場所になりますが、中学校を目印に進んでみてください。

後日紹介させて頂く、諏訪神社がこの今川氏発祥の地近くに鎮座しているのですが、戦前は諏訪神社の境内に今川氏発祥の地の石碑が据えられたそうです。戦後、この地に石碑などを移設させたのか、境内が削れてて石碑がこの場所に独立したように残ったのかは不明ですが、写真の様に史跡として整備されています。

愛知県によって据えられた今川氏発跡地の石碑。
裏側には、

「吉良氏ノ次男国氏此地ニ居リ後去ニ駿河ニ赴キ今川ヲ以テ氏トナス後来多ク今川ト称スルモノ多ク其ノ裔ナリ」

と彫られています。

この今川氏発祥の地には一基の墓石が安置されています。
この墓石についての説明がその脇に石版として据えられています。

墓石は今川貞世の墓石のようです。
遠江守護、九州探題を歴任した武将の墓石が今川氏の菩提寺などに安置されている訳でなく、ポツンと安置されているのはなにか理由があるんですかね。

訪問を終えて

西尾市の指定史跡になっているのもあり、綺麗に管理されている場所でした。上記の様に由緒なども書かれてた石碑などが置かれているのもうれしいですね。

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